映画「和」 願い事をされたり、祈ったりされたら、どんな気分でしょう? 2014/05/05 8:07 AM 昨日は、問いは友達の輪を広げる・・と書きました。 私は神様とは問いの関係にあります。 ところで神様に願い事をしたり、祈ったりする人もいると思います。 でも、もしもあなたが願い事をされたり、祈ったりされたら、どんな気分でしょう? シェアしましょう ! Tweet « 映画「和」 問いは友達の輪を広げる 映画「ワンネス」「和」 問いは双方向を生む » コメント 小町 より: 2014/05/05 08:43 もりけんさんと神様が問いの関係でいるから恋することが出来ると思ってきました。友達になるには問いが必要なんだと思います。でもその友だちが毎日こうしてくれたらああしてほしいになるとうっとうしいです。頼まれたことを何度もしてもまだ足りないってなると疲れてきてしまうと思います。その状態の関係はイヤになると思います。神様をほとほと疲れさせていたんだと思います。その関係は変だと思うけど、今まで平気でやってきたと思いました。 どせい より: 2014/05/05 13:22 やっぱり、すごい問いかけだと思います。自分が神の視点に立ってみることなど、これまで想像もつかなかったです・・。勝手に、神は全知全能だとばかり思っていました。でも、いわれるように、もし神の視点になったとき、お願い事とか、祈られてばかりだと・・・イヤかもしれないです。それでは関係性が、ずっと一方通行ではないかと思います。そして、願いを1個かなえたら、多分、次はもっと大きなことをお願いすると思います。そして、それをかなえたら、さらにもっと大きなことをお願いしていくと思います・・・。それが、全世界で60億人もいると思うと・・・もうきりがないです。自分が、神と、問いの関係になく、祈りの関係にしかなかったというのも、やはり森田さんからの指摘ではじめて気がつかされたことだと思います・・。 和佳 より: 2014/05/05 16:12 自分にむかって…お金持ちにしてください!とか家内安全、世界平和 病気を直してよ!とかお祈りや祈願が繰り広げられたら…それはなんでこうなったと途方に暮れます。だってなんの力もありません。ほんとに…ただ生きてるタイプだし、なににも貢献しない稼ぎもない、友達もいない。そんななのに…突然、私が叶える役回りみたいになってて…それが叶わなかったらみなさんどうなるかと…たぶん…怒りを向けてくる人、文句言う人、絶望する人…そしてたまたま私と関係なく何かがかなって…ありがとうという人…またお願いします!という人…その人達同士で 「いる」「イナイ」の論争にもなりそうです。なんていうか恨みも感謝も危険もお株があがることもつもっていくが…でも私はほんとはどれにも関与できない…そこでは…自分だけ世界と係ることができない蚊帳の外みたいな気持ちになります。いまよりボッチかも。なぜなら多分そういう時の私に期待されるのはなんか奇跡みたいなものだけだから。それが周囲にとっての私の存在理由みたいになってしまったら…それが…いっちばん自分にないものだもんなって思います。そこで私がすることは…とにかく願い事先は自分じゃないふりをするか(聞いてもどうしてもあげられないので)…しかしあまりに追い詰められてしまえば突然泣くとか怒るとか やがてはもうその反応すらできなくなるとか…たぶんお願いするその前で まったく逆にむかうような悪い外応連発するなにかになってしまうかもしれないなとおもいます。 こはな より: 2014/05/06 02:07 願い事されたり、祈られる神様の気分・・祈られるは意味不明で、願い事は、無理って思うかもしれません(笑) まりん より: 2014/05/07 01:11 神様ならどうか?って立場から考えてもみなかったです。急に誰かから祈られたり願いごとされたりしたら、えーーーって逃げ出したくなるかもしれません。自分にできることはたかがしれてるし、自分のことすら自分ではどうすることもできないことだらけです。神だって同じかもしれないって視点はとても深くて優しいなぁって思います。自分の延長線で神のことを考えてるからです。私はずっと自分と切り離された神をイメージしてきたのかもしれないと思いました。
もりけんさんと神様が問いの関係でいるから恋することが出来ると思ってきました。友達になるには問いが必要なんだと思います。でもその友だちが毎日こうしてくれたらああしてほしいになるとうっとうしいです。頼まれたことを何度もしてもまだ足りないってなると疲れてきてしまうと思います。その状態の関係はイヤになると思います。神様をほとほと疲れさせていたんだと思います。その関係は変だと思うけど、今まで平気でやってきたと思いました。
やっぱり、すごい問いかけだと思います。自分が神の視点に立ってみることなど、これまで想像もつかなかったです・・。勝手に、神は全知全能だとばかり思っていました。でも、いわれるように、もし神の視点になったとき、お願い事とか、祈られてばかりだと・・・イヤかもしれないです。それでは関係性が、ずっと一方通行ではないかと思います。そして、願いを1個かなえたら、多分、次はもっと大きなことをお願いすると思います。そして、それをかなえたら、さらにもっと大きなことをお願いしていくと思います・・・。それが、全世界で60億人もいると思うと・・・もうきりがないです。自分が、神と、問いの関係になく、祈りの関係にしかなかったというのも、やはり森田さんからの指摘ではじめて気がつかされたことだと思います・・。
自分にむかって…お金持ちにしてください!とか家内安全、世界平和 病気を直してよ!とかお祈りや祈願が繰り広げられたら…それはなんでこうなったと途方に暮れます。だってなんの力もありません。ほんとに…ただ生きてるタイプだし、なににも貢献しない稼ぎもない、友達もいない。そんななのに…突然、私が叶える役回りみたいになってて…それが叶わなかったらみなさんどうなるかと…たぶん…怒りを向けてくる人、文句言う人、絶望する人…そしてたまたま私と関係なく何かがかなって…ありがとうという人…またお願いします!という人…その人達同士で 「いる」「イナイ」の論争にもなりそうです。なんていうか恨みも感謝も危険もお株があがることもつもっていくが…でも私はほんとはどれにも関与できない…そこでは…自分だけ世界と係ることができない蚊帳の外みたいな気持ちになります。いまよりボッチかも。なぜなら多分そういう時の私に期待されるのはなんか奇跡みたいなものだけだから。それが周囲にとっての私の存在理由みたいになってしまったら…それが…いっちばん自分にないものだもんなって思います。そこで私がすることは…とにかく願い事先は自分じゃないふりをするか(聞いてもどうしてもあげられないので)…しかしあまりに追い詰められてしまえば突然泣くとか怒るとか やがてはもうその反応すらできなくなるとか…たぶんお願いするその前で まったく逆にむかうような悪い外応連発するなにかになってしまうかもしれないなとおもいます。
願い事されたり、祈られる神様の気分・・祈られるは意味不明で、願い事は、無理って思うかもしれません(笑)
神様ならどうか?って立場から考えてもみなかったです。急に誰かから祈られたり願いごとされたりしたら、えーーーって逃げ出したくなるかもしれません。自分にできることはたかがしれてるし、自分のことすら自分ではどうすることもできないことだらけです。神だって同じかもしれないって視点はとても深くて優しいなぁって思います。自分の延長線で神のことを考えてるからです。私はずっと自分と切り離された神をイメージしてきたのかもしれないと思いました。