サインは誰が出しているのでしょうか
イエスキリストははりつけにされたとき言いました。
「わが神、何故、我を見捨てたもうや」
たぶんサインは沢山出ていたはずです。
イエスキリストですら見逃していたのだと思います。
遠藤周作は「沈黙」という小説を書きました。
神は沈黙しているというのがテーマです。
実は私もずーとそう思っていました。
ところがトラさんに出会い、外応という概念を知りました。
周りを見渡してみれば、サインでいっぱいでした。
今回の映画もたくさんのサインの影響を受けています。
サインはモノの動きだったり、人の動きだったり、モノの形状だったりして多彩です。
多くの人は、周囲に起こることが自分と関係しているとは思いません。
そういう意味でこの映画は、世界に対して大変な問題提起をすることになります。
日本人は万物に神を感じるタイプなので受け入れやすいと思います。
話を戻します。
サインは誰が出しているのでしょうか。
誰というのはどういうシステムかとも言い換えられます。
ワカリマセン。
サインが出ているのは、本当にすごいと思います。日常の中でサインに気がつくことは多々あります。それは今はホンの些細なことから大きなことまで多彩です。自分がやるべきことを忘れていたら、その単語を他の人から聞いたりして、「あっ、そうだ」と思い出すのも度々あります。外応を知らなかったら、この現象に気がつかないんだと思いました。キリストはそのサインに気がつかないまま失望してしまったと思います。神は沈黙を守っているのかと私も思っていました。世界がサインに溢れているって、本当に素晴らしいシステムだと思います。誰がそれを運営しているのかの問題は全然わかっていないと思います。サインに気がつくだけで、世界が変わってくると思ってきます。世界を見る目が違ってきているのを私も感じていると思うからです。ずっとサインが来ていたし来ると思います。
外応という概念について、もしかしたら、自分は、やはり軽く考えてしまっていたかもしれないと思います。西洋のキリスト教徒の人にとっては、サインを誰が出しているのか、というのは、私が想像していたより、大問題の可能性があると思いました。
日本人は、どちらかといえば、そういう部分もあいまいで、「お陰様」という言葉もあるように、周囲で起こることが自分に味方してくれる現象というのも、なんとなく自然に受け入れやすいのかもしれないです・・。ですが、かっちり区分して考える西洋文化であれば、これは誰なのか、神なのか、神だとしたら神はシステムなのか・・というのは大問題で、世界に対して、大変な問題提起となるのだと思います。
サインはモノやヒトの動きだとか、モノの形状だとか、一見してそれと自分と関係してるとは思えないものがサインになるのだと思います。とても間接的だと思いました。もしかしたら、キリストも遠藤周作さんも、もっと直接的な答えが来る!と思ってたのかもしれないです。トラさんも、もりけんさんも、神からの間接的な答えをしっかり受け取られたんだと思います。
答えてくれない、沈黙してる神は、なんだか近寄りがたいです。神というか、世界はそういうもの・・と思ってきたから、自分が頑張るしかない、自分で切り開くんだという考えになってきたのかもと思います。でも実は周囲は、世界はサインで一杯だったのだと思います。自分が切り開くという考えがどこかに行ってしまうように思います。
でもそうなるとこのサインは誰が出しているのか・・となるのだと思います。周囲からのサインを知った後は、どういうシステムでサインがやってくるのか・・を考えることになるんだと思います。ワンネスも和も見るだけでは終わらない映画なんだと思います。
どういうシステムかという問いはとても大切である感じがしました。システムの解明にはいろんな視点が必要である感じがしました。どんな人の視点も大事であるように感じました。システムの解明は私という個が意識をもって存在しているという問いでもある感じがしてきました。今までの神の概念がくずれると思いました。この世は神が作ったのではなく、神は人間が作ったという感じがしてきて、今まで信仰の対象である神と呼んでいたものがシステムであるような感じを受けました。システムに対して崇めることはできなくなるように感じました。システムであるから、信じるとか信仰するとかにかかわらず、すべての存在にあてはまるように感じました
ほんとうに大変な問題提起だと思います。沈黙していたのは神ではなくて私たちであったということが「ワンネス」と「和」によって明らかにされるのだと思います。それは初めて私たちと時空との交信が始まるということを意味しているのだと思います。しかしもっと大きな問題は私たちの交信の相手はいったい誰なのかということなのだと思います。時空のサインの存在はその奥にある原因の世界へと斬りこむ大きなトリガーであるのだと思います。そしてこのトリガーはサインの存在そのものよりも更に大きな問題提起を世界に引き起こすものだと思います。
サインは誰が出しているか・・という問いは、すべてが対象で、この問いが向けられているのだと思いました。
サインは誰が出してるか…というのはとても興味深い問いのことだと思いました。その…なんていうか日本国内ばっかりにいるせいなのか…万物がなんかサイン送ってきても奇妙なことに…なにか…ほんと奇妙に…受け入れてしまってるところがあるんだよなっておもいました。なんか…誰がだしてるの?って問にはそこが揺さぶられます。…それにしても…自分て改めてなんか…気が付けないぐらい…がんじがらめなんだなぁって思います。そして問いってメチャクチャ大事だなって思いました その「誰」は「どういうシステム」に置き換えられる…というとこがスゴイです。うまくいえないけど…ここがメチャクチャすごいとおもいました。誰のなかまに…私とか我とか固有の名前とかありそうなんだけど…どれも「どういうシステムか」の仲間かなとおもったからです。そう置き換えて書き込み拝見してるとなんか圧巻です。システム……なにかこの単語が…自分的には既存におきかわらず…初出のなにかみたいに…頭に入ってこない凄さをかんじます
サインは誰がだしているのか?という問いは、大元がどうなってるのか、そのシステムを知りたいから出てくる問いだと思いました。外応というサインを知って驚いたり、それを活用できたとしても、大元を問うような質問はなかなか出てこないんじゃないかと思います。外応という現象も神の性質が現れてるのかもしれなくて、だからその向こうの大元がどうなってるのかという問いが出てくるんだなって思いました。