映画「ワンネス」「和」 サインはリアクションかも? 2014/02/24 7:39 AM サインは誰が出しているのでしょうか・・という問いに対して今朝浮かんだフレーズがあります。 リアクションなのではないでしょうか・・です。 つまり「神が出す」とか言えば主体性を感じます。 どうも、それは違う。 リアクションなら主体性が消えます。 では何に対してのリアクションかと聞かれれば・・ ワカラナイ シェアしましょう ! Tweet « 映画「ワンネス」「和」 サインは誰が出している? 映画「ワンネス」「和」 サインは客観 » コメント こはな より: 2014/02/24 13:17 今朝、返事がアタマに届いたみたいです。リアクション・・何に対してかリアクションしているのかもしれないのだと思います。何に対してかもワカラナイけれど、サインはリアクション・・自動的に行われているみたいな感じがしました。 まるこ より: 2014/02/24 15:00 考えてもみなかった視点です。サインがリアクションなのであれば、サインの送り主は主体とはなれず間接性の中でのみ存在していることになりそうです。まるで先日の「ワンネス」紹介文にあった私たち人間と同じような立ち位置にいるような感じです。誰がサインを出しているのかと考えたときは、主体性を持った存在をイメージしていました。しかしひとたびリアクションとなると、サインの出どころが宙に浮きます。ますますワカラナイですが、大変な視点の転換であると思いました。 みっく より: 2014/02/24 16:22 改めてリアクションってどういう意味だったかなと思って調べたら、まず最初にかいてあったのが反応でした。サインがリアクションだとすれば、出す人を選んでないように思いました。そして何かに対してのリアクションというのは、出す方もなんだか受け身だと思いました。そこに意図や意思がなさそうな感じに思います。 なんしぃ より: 2014/02/24 21:46 リアクションには生命を感じます。何かに対して刺激なりなんなりの通信をした場合、リアクションがあれば、それを生命と感じるような気がします。リアクションには返信も感じます。この世がサインであふれているならば、リアクションにあふれているとも感じて、それは生命であふれているとも感じました。そしてそのリアクションを起こしている大本は何かという問いが出てきて、それがワカラナイとなると、原因を一つに限定できないような感じがしてきました どせい より: 2014/02/25 00:01 サインを誰が出しているのか、という問いに対して「リアクション」という言葉が出てきたのですね・・。すごいです。リアクションは、相手に対する反応だと思います。「神が出す」では主体性を感じられたとしても、リアクションなら、主体性が消えると思います・・。 サインが、リアクションであるとしたら、本当に「神」についてのこれまでの印象が、またガラガラ崩されてくると思います。主体性がなく、どこが中心というのもなく、無数のリアクションが、間接的にずーーーと連なっている・・のを思い浮かべると、相手に対して反応しているだけで、自分の自由意思もなく、自動的に動いているだけだと思います。リアクションといっても、何に対するリアクションなのか・・わからなくなってくると思います。 和佳 より: 2014/02/25 06:43 リアクションなら主体性が消えるといところに考えさせられました。なんか…かっけを調べるときに…膝から下をカーンってうつと 「いてぇ~」とかの反射にならないで ピコーンと足がうごいたりして…ええっそんなとこ動くの…ってなる…なんか反射的な世界を思いました。…でも 叩いたのは誰てなると…なにか運命の問題もでてくるようでなんか…難しいなぁって思いました。誰かそれこそ人が叩いたとして…その人であるが必要ってどうなのっておもうし、その人でなけりゃというシステムなのかどうかも謎であり…転んで膝カコーンてうってピキーンって足つったとかで代替とかでもリアクションがだいたいオッケーで絵がはまったのでカット☆とかありだったりするのかなぁって…なんかウマく書けませんが…映画って最初に『アクション!』ていうケースがあったような風に思い出しました。…監督といえば…『ワンネス』『和』は…主体性ってそれなんでしょう…ってでもいうような監督に撮影されてるのではないかと思いました。どっから映画化のお話きたかに反応を返されたとして……私の中では震災のおばあさんのお話が思い出されます。『迷惑かけてごめんなさい 私はいいから他の人を助けてあげて』…この反応…私にはできるかどうか…出来ない気がする。同じように…明後日のほうこうからきたぐらいの視界にまったくになかった映画をつくりませんか?のお話に反応されて映画をつくることも…出来ないです。ふっとですが…監督はなにやってるのかわかってない…というのがうかんできて…反応を返してる物事は全くまったくなにもしてる気はないんだなっておもわれて…サインを受け取る方にだけ勝手になにか仕組みこまれてるみたいなものをおもったり…サインを送る方は(仮にそう呼んでみます)それでレベルアップもあり得なきゃ損得もない自分の時間も割かないみたいな(愛…でもないなとおもいます)なにもしてないのにしてたみたいな…うーんって唸ってます。悩んでこもってもいいけどさ…ちょっとだけ周囲を気にしてみよう なにもできないからいんだよ…みたいな…なんか変なお誘いというかみたいなの…イケナイワまじめに建設的に考えて動かないと…みたいなのちょいっとかるく蹴るような…なんでかわからないけど…なんだかむしろカルマの逆みたいな宇宙は健康ですみたいな感じがするなぁと思いました。さっぱりまとまらないでとっちらかったレスになってしまいました。そのぐらい…なんだかわかんない感じです 小町 より: 2014/02/25 07:21 サインが誰かが出すのは、さあここでみたいな主体性が生まれるかもと思います。手旗信号みたいにくるものがサインでは無いんだと思います。サインは本当に何気ないのに、しっかりと伝わるものだし出ているのだと思います。リアクションしているのを感じているだけかもしれないです。 まりん より: 2014/02/26 00:54 サインは誰が出してるかは、西洋人にとっては神と関わる大問題なのだと思います。けれど、その問いの「誰が」というのが、「リアクション」になると主体的から受け身的に切り替わるようです。外応というリアクションによって神の世界が成り立ってるとしたら、リアクションを作りだした神(時空)はめちゃくちゃすごいです。中心や頂点を感じないからです。
今朝、返事がアタマに届いたみたいです。リアクション・・何に対してかリアクションしているのかもしれないのだと思います。何に対してかもワカラナイけれど、サインはリアクション・・自動的に行われているみたいな感じがしました。
考えてもみなかった視点です。サインがリアクションなのであれば、サインの送り主は主体とはなれず間接性の中でのみ存在していることになりそうです。まるで先日の「ワンネス」紹介文にあった私たち人間と同じような立ち位置にいるような感じです。誰がサインを出しているのかと考えたときは、主体性を持った存在をイメージしていました。しかしひとたびリアクションとなると、サインの出どころが宙に浮きます。ますますワカラナイですが、大変な視点の転換であると思いました。
改めてリアクションってどういう意味だったかなと思って調べたら、まず最初にかいてあったのが反応でした。サインがリアクションだとすれば、出す人を選んでないように思いました。そして何かに対してのリアクションというのは、出す方もなんだか受け身だと思いました。そこに意図や意思がなさそうな感じに思います。
リアクションには生命を感じます。何かに対して刺激なりなんなりの通信をした場合、リアクションがあれば、それを生命と感じるような気がします。リアクションには返信も感じます。この世がサインであふれているならば、リアクションにあふれているとも感じて、それは生命であふれているとも感じました。そしてそのリアクションを起こしている大本は何かという問いが出てきて、それがワカラナイとなると、原因を一つに限定できないような感じがしてきました
サインを誰が出しているのか、という問いに対して「リアクション」という言葉が出てきたのですね・・。すごいです。リアクションは、相手に対する反応だと思います。「神が出す」では主体性を感じられたとしても、リアクションなら、主体性が消えると思います・・。
サインが、リアクションであるとしたら、本当に「神」についてのこれまでの印象が、またガラガラ崩されてくると思います。主体性がなく、どこが中心というのもなく、無数のリアクションが、間接的にずーーーと連なっている・・のを思い浮かべると、相手に対して反応しているだけで、自分の自由意思もなく、自動的に動いているだけだと思います。リアクションといっても、何に対するリアクションなのか・・わからなくなってくると思います。
リアクションなら主体性が消えるといところに考えさせられました。なんか…かっけを調べるときに…膝から下をカーンってうつと 「いてぇ~」とかの反射にならないで ピコーンと足がうごいたりして…ええっそんなとこ動くの…ってなる…なんか反射的な世界を思いました。…でも 叩いたのは誰てなると…なにか運命の問題もでてくるようでなんか…難しいなぁって思いました。誰かそれこそ人が叩いたとして…その人であるが必要ってどうなのっておもうし、その人でなけりゃというシステムなのかどうかも謎であり…転んで膝カコーンてうってピキーンって足つったとかで代替とかでもリアクションがだいたいオッケーで絵がはまったのでカット☆とかありだったりするのかなぁって…なんかウマく書けませんが…映画って最初に『アクション!』ていうケースがあったような風に思い出しました。…監督といえば…『ワンネス』『和』は…主体性ってそれなんでしょう…ってでもいうような監督に撮影されてるのではないかと思いました。どっから映画化のお話きたかに反応を返されたとして……私の中では震災のおばあさんのお話が思い出されます。『迷惑かけてごめんなさい 私はいいから他の人を助けてあげて』…この反応…私にはできるかどうか…出来ない気がする。同じように…明後日のほうこうからきたぐらいの視界にまったくになかった映画をつくりませんか?のお話に反応されて映画をつくることも…出来ないです。ふっとですが…監督はなにやってるのかわかってない…というのがうかんできて…反応を返してる物事は全くまったくなにもしてる気はないんだなっておもわれて…サインを受け取る方にだけ勝手になにか仕組みこまれてるみたいなものをおもったり…サインを送る方は(仮にそう呼んでみます)それでレベルアップもあり得なきゃ損得もない自分の時間も割かないみたいな(愛…でもないなとおもいます)なにもしてないのにしてたみたいな…うーんって唸ってます。悩んでこもってもいいけどさ…ちょっとだけ周囲を気にしてみよう なにもできないからいんだよ…みたいな…なんか変なお誘いというかみたいなの…イケナイワまじめに建設的に考えて動かないと…みたいなのちょいっとかるく蹴るような…なんでかわからないけど…なんだかむしろカルマの逆みたいな宇宙は健康ですみたいな感じがするなぁと思いました。さっぱりまとまらないでとっちらかったレスになってしまいました。そのぐらい…なんだかわかんない感じです
サインが誰かが出すのは、さあここでみたいな主体性が生まれるかもと思います。手旗信号みたいにくるものがサインでは無いんだと思います。サインは本当に何気ないのに、しっかりと伝わるものだし出ているのだと思います。リアクションしているのを感じているだけかもしれないです。
サインは誰が出してるかは、西洋人にとっては神と関わる大問題なのだと思います。けれど、その問いの「誰が」というのが、「リアクション」になると主体的から受け身的に切り替わるようです。外応というリアクションによって神の世界が成り立ってるとしたら、リアクションを作りだした神(時空)はめちゃくちゃすごいです。中心や頂点を感じないからです。