映画「ワンネス」「和」 サインは客観

2014/02/25 7:58 AM

  
 一昨日の書き込みに対するレスからの気づきを書きます。
 イエスキリストと遠藤周作の「沈黙」を例に出しましたが、クリスチャンの場合、サインは主観的だと思います。
 誰もが同じように感じることができないと思うからです。
 神を信じているか、信じようとしている人にしか感じられないものです。
 しかし映画「ワンネス」や「和」で取り扱っているサイン(外応)は客観的です。
 周りにいる人が同時に体験することができます。
 イエスキリストや釈迦のような人が布教する必要もありません。
 悟る必要もありません。
 高次な意識を持つ必要もありません。
 客観の世界ですからルールを知るだけです。


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コメント

  1. こはな より:

    主観はそれだけでジャンル分けされているのだと思いました。けれど客観にはジャンル分けはされていないと思いました。キリストや釈迦、宗教を信じるひと、そうではないひと・・皆で同時にサインは体験できるのだと思います。科学者のようにルールを調べたり、この概念を知れたことはとてつもないと思いました。

  2. みっく より:

    客観的なサインというのはすごいことだと改めて思いました。信じるとか信じないとか、どこのだれか、何をした人か・・にかかわらず、ルールを知りさえすれば誰でもOKなんだと思います。いつでもどこでも誰でも・・・なサインなんだと思います。地球の重力が地球上の全てのものに影響するみたいに、存在する全てのものが受け取れるはずのものみたいに思います。

  3. どせい より:

    そう考えると、「サイン」が主観的ではなく、客観的であるというのは、すごいことだと思います・・。布教をする必要もなければ、悟る必要もなく、高次な意識も必要なく・・精神性をあげるような特別なことは、まったく必要ないのだと思います。特定の人だけがゲットできるような閉鎖性がないです。誰もが同じように感じることができるのだと思います。ルールをしるだけでよいという、まるで物理法則のような平等性があると思います。

  4. まりん より:

    主観と客観の違いはとっても大きいです。主観だと自分だけの世界だけど、客観だと誰でも同時に体験できるからです。今まで私は主観だけで神の世界を考えてきたのかもしれません。けれど、もりけんさんが物理の方程式の向こうに神を発見したように、神の世界は客観的なルールで成り立ってるのかもしれないと思いました。外応もそのひとつで、信じる信じないではなくて、ルールを知るか知らないかだけ。。。すごい発見です。

  5. 和佳 より:

    書き込み読みながら…映画中の『運命引き寄せの黄金率』の歌詞をおもいだしました。「笑いや光や丸いものそんなサインはゴーゴー 怒り割れる鳴き声そんなサインはオーノー」のところです。外応は…その字のとおりに外から来るなとおもいました。…なんかスープの情報を思い出して…そっと隣の人にこんなことあんねんって伝えただけでいいところが有るように思います。それに…エーそんなことあんのかい??とおもっても…一回聞いたら忘れない情報っていうか、うっかり一度経験したらなんだかサインが面白いこともあり…なんとなく心にすっとはいってしまうとこあります。外れても…やっぱなんか面白いので自然と外を見てる自分がいて…なんかシンプルなのに情報の保存され方が…強力だなって思います。何度も考えてみたりしないといけない…悟りの逆かもしれないです。一端はいってきたら…なんか…そんないい加減で冗談みたいなことなことなのに…どこかに妙にしっくりきて(言葉を知らない赤ちゃんですら◯が好きで 割れる音にに怯えるというかです。)…それをまったく忘れるほうが大変みたいなとこ有るように思います。…記憶って感情(主観的ではないかとおもいます)を伴ったほうが定着しやすいていうけど…外応は情報もルールも自分ではまったく編み出せず…サインも情報も外から伝わってきて客観なのに 頭の何処かが自動的に動き出さざるおえないようなグイグイ喰い込んでくる不思議さがあるなとおもいました。
     
    …ここまで描いてきて…えっ誰もが体験できるってとってもスゴいとおもいました。なんというか科学の時間をおいての再現性みたいなのはないけど…同時にみんなが体験できる部分はあるのですね。なにかを計画してやることはできなさそうなのですが…一度おこったった時にはその情報が届く範囲にいる場の人が一度に体験できるんだ…主観ではない…というのはなんかすごいことです。「和」というのには…みんなで…みたいなニュアンスがあるとおもうんですが…わー…なんか衝撃受けました。今まで個人にしか意識向いてなかった。あの…笑い声とか割れる音とか…自分にだけ着てるわけじゃないんですね。一度にいろんなことが同じ情報で?!処理されてるし…その効果が届く場というかにその場その時、例えばその喫茶店に何人かいたりして…聞こえる人あり聞こえてない人あり……なにかあるんだなって急に思いました。…主観的に捉えないと…外応にまたひとつ別の顔があるのがおぼろげにみえてくるような気がしました

  6. なんしぃ より:

    主観的だと観測できなくて、その人がそう感じているで収束してしまっている感じがします。検証もできない感じもします。でも客観的ならば、どの人にも当てはまり、みんながそのことを観測したり討論したり情報共有できる感じがしました。みんながどんな人であっても同時に感じることもできるように思いました。自分だけではないから開かれた間接的な世界をサインに感じました

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