「人生は暇つぶしだと思ってから、急に自分が軽くなって、新しいことをどんどん始められるようになった」という文章が『諦める力(為末大著)プレジデント社』に書いてありました。
これは僕の座右の銘である「人生は余生」だと同じです。
僕は大学を卒業して社会に出るとき、これを思ったのです。
僕は若者的思考が嫌いです。
「夢に向かって諦めない」とか(笑)。
逆にジジイ的思考が好きです。
「人生、頑張ってどうする」とか(笑)。
夢や目標に向かってしまうことは、それ以外を切り捨てることです。
来るモノこばまず・・・これが暇つぶし的人生の生き方です。
そして飽きればやめる。
はい、実際、不思議研究所を始めるとき、それまでの会社経営に飽きていました。
余生と暇つぶしだから、飽きっぽい(爆)
飽きたら、ボーとしている。
すると何か、来る(笑)
余生的や暇つぶしは・・広い世界から何かやって来るみたいです。夢や目標を持つと切り捨ててしまわれるものも、すべてが対象で、いつ飽きるかもワカラナイし、次来るまでも、ボーとしていていたり・・すごく力が抜けていて気持ちよさそうです。
余生と暇つぶしはまったく指向性と主体性が無いのだと思いました。何をやってもいいし、やってもやらなくてもいい。いつやめてもいい。向こうから来たという以外にもともと始めた理由がないから、やめるときにも理由は要らないんだと思います(笑)そんな生き方、家でも学校でも、社会に出ても誰にも教わったことなかったです。そういう生き方もあるんだと知れてとても嬉しいです。余生と暇つぶしのジジイ的生き方は「ワンネス」的、「和」的な生き方でもありますね。どこにも向かわず、いつも全体と一つ。とてもワクワクしてきます(笑)
年齢を重ねて、定年するような年に人生は余生・・と思われたのでなく、大学を卒業したときに思われたというのがすごいと思います。たぶん周囲から見れば大学を卒業し、社会に出るる時というのは、一番夢や希望にあふれてるような状態と思われてるし、実際にその年齢の人たちはそう思ってるのではないかと思います。ジジィ的思考と書かれてるけど、実際のもりけんさんは今もメチャクチャ若くてエネルギッシュです。暇つぶし、余生・・というのは、しなくてはいけないという義務とか、責任感とか、そういうのがない状態に思います。もりけんさんは若い時から、何かのために・・と視点を狭めることをせず、来る者は拒まず、目の前にあることに全力を注ぎ、先のための今のための今を過ごしてこられたんだと思います。自分のいまの時間を、余生とか暇つぶしと思うということは、夢や目標に向かうよりも、ずっと楽しそうで、なんでもありで、見返りを期待していない分、際限なくエネルギーが出そうに思います。
視点が自分に向いていないと感じました。自分の人生をよくしようとか、世の中をよくしようとかを考えるのではなく、視点はこの世界のルールを作った大元に向いていて、自分のことは考えていないと感じました。来るものに対してこばんでいなくて、命を出し切っていると感じました