高校二年以来、私の一生は、神の性質を知りたいことに捧げられます。
例えば好きな人ができたとすれば、その人の性質を知りたいですよね?
性質を知らないのに信じれば、盲目的だと思います。
つまり、神と遭遇したと言っても、一般的な意味での遭遇とは違うのです。
ひとことで言えば、研究対象あるいは実験対象になっただけです。
しかし一分前までは考えてもいなかったことです。
突然私に、壮大な研究テーマが降ってきたのです。
物理のノートの隅に書きました。
「神様、あなたのことを知りたい」
(続く)
森田さんと神は一般的な遭遇ではないのだなと思いました。私達が一般的に神って言ってるものとは違うんだなと思いました。おもいだされるのが…非改革派で絶望があったと伺ってます。そして今でもそれがわかるなって思われるほど無神論にちかかったところに…突然降りてきたのだとおもいます。私は…なにか受け身であることってすごいことなんだと思いました。それまで話題にもしなかったものをどうして受け取れて あなたのことを知りたいって書けたのか…なにかほんとうにすごい話だと思ったし、神は実験対象になった…自分はそんなふうになったことが無いと思いました。お話とても興味深くて ほんとに自分はどうしてそうならないのかなともおもうし(私の思い込んでる神様はやっぱどっか実験とかさせてくれなさそうで)…なんかその神様のお話何度も聞いていたいです。私にとってとても未知のお話に感じますし逆に思い込みの向こうの神様を知ることってこっちのほうかなって思いました。でも自分ではできないのが悔しいです。夢と希望があるうちはなんだか…実験できないきがします。それでもこうやってお話が聞けるのは奇妙に幸せなことだって感じます。
高2の森田君は、突然物理の方程式の向こうにいる存在を感じ、その存在に一瞬で恋に落ちたんだと思います。好きになったら相手のことを知りたくなります。森田君にとって神は、多くの人が考える、祈ったり、お願いしたり、見守ってくれる神とは全然違うと思いました。その時に物理のノートに書いた言葉を、その後もずっと思い続け、行動し続けておられるんだと思います。
神のことをここまで好きになった人はいないと思うし、ここまで性質を知りたいと思った人もいないと思います。自分も含めて、ほとんどの人が、神ってどういう存在なのか知らないまま、勝手にスゴイソンザイとか思って、お祈りしたり、困った時だけ神頼みしたりしてしまっていたと思います。
直接目に見えるというわけではない神の存在を感じて、その神様を知りたいと思った・・ということそのものが、もりけんさんの視点の大きさを感じます。それもその気持ちをずっと持ち続けておられます。それほど、その瞬間沸き起こった問いはメチャクチャ大きかったのだと思います。
好きな人を知りたい、それは誰もが経験したことがあると思います。でも、相手が神で、神の性質を知りたいというのは、今まで感じたことないです。研究対象や実験対象というのも、ないです。神がすでにできあがったイメージや概念だったからだと思います。森田君の出会った神は、まだ何もわかってない、研究や実験して、これから知っていく対象だったんだと思います。とても衝撃的な出会いです物理のノートに書かれたフレーズは、神を少しでも知ってる気になってたら、絶対に出てこないメモだなって思いました。
研究テーマが降ってきたというところに、研究している大本は神のような感じがしてきました。人間は自力で目標を持ったりできないような感じを受けました。森田くんは絶望していたから、神の方からテーマが降ってきた感じがしました。人生に絶望している状態というのは、自分の人生を自分で切り開こうとかしていなくて受け身で自分が主体的ではないから、神も降りて来やすい感じを受けました。神との遭遇というと、選ばれた特別の偉人のような人を思ってきましたが、もりけんさんは神からテーマが降ってきても凡人であり続けていると思いました。研究対象や実験対象になってテーマとして降りてきたのは神のほうであった感じがしました。神は研究されたいような感じがしました。でも私をふくめ多くの人は神を研究の対象とは思っていなくて、神を知りたいとは思っていなかったから、神も来たくても来れなかった感じがしてきました。もりけんさんは情報を公開することで自らの事例を公開し続けて研究対象となり自らの実体験を公開して仮説も公開し全体に根源に問い続けていると感じ、神はそのように神の研究テーマの情報を不特定多数の人やすべての人に平等に情報を公開していて、さらに情報を広く公開してくれる人のところにテーマを降ろしてきている感じがしてきました。情報を公開する人というのは自分だけが特別であるとかそのように自分だけ情報を独占したり情報を改ざんしたりしない人のところに情報がテーマが降ってくる感じを受けました。もりけんさんの探求している神の性質には、個よりも全体との和を大切にしていて情報を平等に公開している感じを受けました。それを受けることができた人がもりけんさんだけであるように感じました。もりけんさんと神はとても似ている感じがしました。神を知りたいということに人生をかけている人はもりけんさんしかいないと感じました
神を一瞬に好きになっていると思います。森田君が出会った神は小さなルールのなかにいると思います。シンプルなのにメチャクチャ行きわたっています。その感動は人生の研究テーマになって、神を研究し出したと思います。対等だから実験できるに、とても深いと思いました。実験には神が不可欠です。もりけんさんほど、堂々と神が好きで知りたいと言っている人を私は知らなかったです。もりけんさんは、だから神に好かれているのだと思います。
こんな風に神様と遭遇したのは初めて聞き、森田君の中にどういう風に存在しているのかを感じました。一般的ではないけれど、ちゃんと知りたい態度がとても素敵だと思いました。
一般的な神との遭遇はゴールだと思います。それは人に着地感や安定感を与えるものだと思います。それに対して、高校二年のもりけんさんの身に起こった神との遭遇はスタートなのではないかと思います。神との遭遇によってもりけんさんは常に浮遊され、一時も安定されることなく、神に問い続けてこられたのではないかと思います。物理の授業中に電流が走った一瞬と全く同じように、もりけんさんは今この一瞬も同じスタートラインに立たれているのではないかと思います。それは、いつ、どこに、どのような形で存在しているのかも、いつまで存在するのかも、果たして本当に存在しているのかも全く分からないスタートラインなのではないかと思います。そんなスタートラインに立って、「神様、あなたのことを知りたい」とつぶやかれたのではないかと思います。そしてきっと今も、高校二年生のまま同じことをつぶやかれているのではないかと思いました。
高校2年以来、一言で言えば、森田さんは、神の性質を知ることにささげられてきたのだと思います。神に対して、妄信するのではなく、好きな人ができれば、その人のことを知りたいと思うのと同じように、神のことを知りたかったのだと思います。まるで実験や研究の対象のように、神ことを知るたびに、神の性質は奥深くて、さらに森田さんを虜にして、もっと知りたいって思わせてきたのではないかと思います。
神様の性質を知りたい。そういうことを聞いたことはありませんでした。宗教に縁のない生活だからだと思いますが、神様って何?と話しあったことがないです。神様が見てるとか、神様はいるとかそんな次元でした。性質を知りたいという次元は全く違っていると思いました。性質について考えると原点を深く意識しそうな感覚がしました。ここから下位の問いにつながっていったのかもしれないと思いました。
性質を知らないのに信じれば盲目的というのは、いい換えるとミーハーってことだろうなと思いました。研究しようとか実験しようというイメージはなく、ただ追いかけるだけの一人でエネルギーを使っているイメージがしました。 性質を知りたいとおもうのはどっきりします。好奇心にスイッチが入ったんだと思いました。