アダムとイブがエデンの園で智恵の実を食べたのは原罪と呼ばれています。
神が禁じているものを食べたからです。
神はアダムにこう言います。
「食べるなと私が命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生苦しんで地から食物を取る」
のろいと言う言葉とか、一生苦しむとかいう単語が出てきています。
上智の人間学は聖書を使うことがありませんでした。
私は上智で多くの宗教学を履修しましたが、やはり、一度も聖書は開くことはありませんでした。
聖書を使ってしまったら、今回のような「愛」の授業はできないような気もします。
(続く)
聖書に書かれている、アダムとイブが、エデンの園で知恵の実を食べたために、失楽園したエピソードは、人間の本質の成り立ちみたいなのを突いた、比喩であると思います。まず、聖書というのは、このような深い洞察で書かれていることに、驚きます。しかし、このエピソードは「原罪」と呼ばれていて、聖書でも、知恵の実を食べたことによって、「のろい」とか「一生苦しむ」とか、悪いようなイメージの言葉が出てくるのだと思います。
聖書では、人類が、知恵を持つことになったと同時に、孤独を知るようになったエピソードを語られていて、聖書も、人間学の教科書も、本質は同じ点を語られているのかもしれないですが、聖書を使ってしまったら、今回のような「愛」の授業はできなかったかもしれないです。聖書を使わない上智の「人間学」であったからこそ、このような授業ができたのかもしれないと思います。
上智大学の人間学でお話されている「愛」のお話は、人間の生き方のお話なのではないかと思いました。聖書の原罪のお話は人間になった原因のお話だと思います。のろいや一生苦しむことが一生の前提なんて嫌ですが、そんなことはないと思いますが・・例えそれが本当だったとしても今ここで生きる人間の生き方についてお話したかったから、愛についてをお話したかったから、聖書は使わなかったのではないかと思いました。
聖書ではアダムとイブがエデンを追放されたのは、神の命令にそむいて知恵の実を食べたからです。それは原罪と呼ばれて、その子孫である私たちは生まれながらに原罪を背負ってるんだと思います。生まれながらに、のろいや苦しみを背負って、否定から始まる生です。けれど、その聖書を使わなかった「人間学」や「宗教学」では、エデンから出て個としての孤独を感じ、私は誰?という問いから始まります。それは、個としての私をめちゃめちゃ肯定してると思います。だからこそ、愛もまったく違うように感じます。聖書の愛は罪のつぐないから始まるように思うけれど、人間学の愛は、私は誰?から始まると思うからです。
聖書は「答え」なのではないかと思いました。しかし驚くべきことにキリスト教の大学である上智大学の全学必修の「人間学」の授業でも、他の宗教学の授業でも一回もその「答えの書」である聖書が開かれることは無かったのだと思います。聖書に書かれてある人間は、罪を背負ってのろいの地に苦しみ生きる存在なのだと思います。そしてそれは人間が神の教えに背くという悪を行った結果であり、人間存在の起源は悪行の因果応報としてあるのだと思います。この前提を答えとして人間の存在を考察していたら、まず「私は誰?」という問いは出てこないと思います。これまで読ませていただいて「人間学」の授業は「私は誰?」が前提だと思います。上智大学では「答え」ではなく「問い」の講義が、行われていたのだと思います。だからこそ聖書は使われなかったのではないかと思いました。
キリスト教の大学の
ましてや宗教学の授業で
聖書が使われ無かったのには
びっくりしました。
聖書は基本中の基本だと
思っていました。
聖書ではアダムは神に背いたワルイ奴になってしまってて、その罪があることが人間の大前提みたいになってると思いました。罪悪感を持ったまま生きなければならない感じがします。人生は苦しいもの・・という感じがします。そんな聖書とキリスト教はセットだと思っていました。でもキリスト教の大学である上智では、まったく聖書を使わなかったのだと思ます。そして、他のどこでもやってないような愛の授業が行われてたんだと思います。