映画「和」 他力思想

2014/04/03 8:05 AM

 image花見1りぼんと花見s 
 昨日の続きです。
 桜は自己増殖できないと書きました。
 日本人が接ぎ木で増やしてきたのです。
 桜にとってみれば他力です。
 他力といえば法然・親鸞の「他力本願」です。
 戦国時代、ある武将が敵に捕まりました。
 そこに法然だか親鸞だかが立ち寄ります。
 捕えられた武将は言いました。
「私は戦争で敵を沢山殺しました。やはり地獄に落ちるのでしょうか?」
「南無阿弥陀仏と言いなさい。それですべてが救われます」
「えっ、あなたの宗教を信じていなくてもいいのですか? しかもたった一回でいいのですか?」
「はい、信じていなくても良いです。たった一回言うだけであなたは救われます。信じるとか、何度も唱えるとかは自力です。仏様は他力本願です」
 日本にいちばん普及したのがこの浄土宗と浄土真宗です。
 信じる必要もないので毎週日曜に教会に行ったりする必要もありません。
 たった一回言えば、カルマも残りません。
 これも日本人の良さのひとつだと思います。
 きょうの写真はリボンだけです。


シェアしましょう !



コメント

  1. まるこ より:

    日本でもっとも普及している宗教と桜が「他力」というところで繋がっているなんて、思ってもみなかったです。私たち日本人は知らず知らずのうちに「他力」を感じさせるものを好きになったり、親しみを感じるようにできているのだと思いました。自分たちでも気がついていないところが無意識的で日本人らしいとも思います。自分たちの良いところに気がつかないのも、ある意味、日本人らしいのかもしれないと思いました。それも「他力」が根底に流れているからのような気がしました。リボンちゃんと桜のお写真、とっても素敵です(笑)

  2. みっく より:

    仏教の中でも、信じなくても良くて、頑張らなくてもよい宗派が一番広まったんだと思います。他力本願な日本人と、他力で増えた桜は、ますますぴったりだと思いました。戦いでは、殺した側の方がつらいかもしれません。それでもたった一回唱えればOKというのはほんとに救われたと思います。南無阿弥陀仏と言う瞬間だけでいいのだと思います。それで多くの人が救われた日本だったのだと思います。見事な桜とその下にいるうれしそうなリボンちゃんが、とても素敵なショットです。

  3. こはな より:

    今日の写真で桜の木の影が沢山見えて、昨日の写真をまた見たら、桜の木の日陰の中にいたのだと思いました。木漏れ日がピンク色のジャケットに見えました。
    桜は人の手によって増えていき、武将さんは、法然または親鸞さんの一言で、心配がゼロになったみたいです。直接助けてくれたのは、目の前の方で、日本人は周りの人を神様のように思っているのかもしれないと思いました。だけどこの時に、出会いがあったことは見えない陰の他の力も働いている気がしました。

  4. どせい より:

    戦国時代、日本には、浄土宗や浄土真宗が普及していて、その思想の大元は「他力本願」なのだと思います・・。先日、江戸時代のお話がでましたが、もっと前の時代から、日本には他力の思想があったと思います。桜については、平安時代の昔から歌にも読まれていますが、桜も自己繁殖のできない他力的で、いわば日本の歴史の中には、ずっと昔から、他力的な思想が脈々と受け継がれているのかもしれないです。自力主義の西洋思想が輸入されたのは、まだ、本当に最近のことなのかもしれないと思います・・。

  5. 小町 より:

    他力思想はカルマさえもゼロにすると思いました。自分のやってきたことは少なからず自分の罪になるものを残していると思います。それを南無阿弥陀仏だけで、帳消しですよに、すごく安心してきた結果が浄土教であり浄土真宗だと思いました。浄土真宗の学校法人が営む女子校に通っていました(笑)宗教という授業があって、私は好きでしたが、他の生徒は全然興味が無かったです。経ったひと言信じなくても言えば、そこは極楽だというのは他力本願の中だあということになると思いました。桜の花の中にいるリボンちゃんがそれを体現していると思います。人が接ぎ木して、桜は見事に咲いてくれます。自力は小さいけれど他力は大きいと思います。私は生きていると思っているのはきっと自力の部分だと思います。他力の方がほとんどで罪もカルマも本当は無いのに自分のことだけになるといきなりレベルが出てきたりすると思います。生かされているただそれだけを他力に頼ることが自分であることすら、守らない思想がこの日本で息づいているというのがすごいと思います。

  6. なんしぃ より:

    信じるとか何度も唱える自力は、自分しかいない世界観を感じました。現実に他人が存在していても、自力思想で生きるということは、結局は自分のことしか考えていない感じがしました。桜は自分のことは考えていない感じを受けました。自分を保存しようとか存続しようとか、もうそのようなことから降りている感じがしました。そこに日本人は感動して、思わず接ぎ木しなくれはいられない気持ちがあふれてしまうように感じました。その接ぎ木をしているときは、やはり自分のことを一番に考えていなくて、桜のことしか考えていないと思いました。日本人は他人のことに無我夢中で自分のことはいったん置いておいて、他人を生かすことに命をかけれるように感じました。そうなると、神という存在も人間が他力思想で生きていた場合、接ぎ木をする人間のような状態になって、人間を桜のように存続させたい気持ちがあふれているかもしれないと思いました

© 2015 森田健 All rights reserved.