映画「和」 愛と自由

2014/04/07 7:38 AM

 自由の女神 
 愛と自由は明治になって外国から輸入されたと書きました。
 日本人にはもともと内在されていた可能性があると書きました。
 では西洋では、なぜ元々二つの単語が存在したのでしょう。
 イエスキリストは「汝の隣人を愛せよ」と言いましたが、これは民衆に対して愛を要求しているとも言えます。
 自由もそうだと思いました。
 ニューヨークにある自由の女神は、自由を勝ち取ったフランス革命がモチーフだと言われています。つまり西洋人は要求して、その結果、自由を得たのです。自由を得るために多くの血が流されています。でも日本は違うような気がします。
 江戸時代は士農工商があって自由は少なかったはずですが、そこに不自由を感じなかったのではないかと思います。
 写真は「『民衆を導く自由の女神』(1830年、ウジェーヌ・ドラクロワ画)」です。


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コメント

  1. なんしぃ より:

    これは自由ではないな正義とか言い訳だなと感じました。今感じる自由というのは、目隠しされて後ろ向きで手足も縛られて、何もないところにまっ逆さまに突き落とされてもそのままで受け身であり続ける姿だと感じています。周りにすべてをゆだねて、目的も目標も投げ出した状態のように感じます。かなりの勇気と、個を持ちながら保身がない状態で、究極の他力で生きることのように感じました。だから、この絵画に描かれている自由は自力で自分に主体性があると考えている自由であり、自分を限定して言い訳をしている感じもしました。西洋と東洋では自由に対する概念が根本的に違うかもしれないと感じました。自由に対する既存の概念の違いからよく考えていきたいと感じました

  2. 小町 より:

    愛と自由を求めるのは愛や自由が無いと考えるせいなんだと思います。足りないことばかりになってくると思います。自分が置かれている状態は人より劣っているというのが強く出てくると奪うことで要求することで達成したいになると思います。自由の女神は自分だけの味方しかしない存在になってきそうです。身分が決められている江戸時代は自由が無いのに階級を超えた結婚も結構あったと思います。陽子という形で好きな人と添い遂げさせようは周りの配慮を感じてきます。愛という名で奪い取るよりすごく優しい愛を感じます。身分があるのに、身分を感じさせないのが不満が無いし不自由でも無いものを自然体でやっているのは江戸時代の人々だったと思います。わざわざ戦いをしない方法でやっていたと思います

  3. こはな より:

    江戸時代の日本人は自由を求めて戦うとか無さそうに思います。女性が先導して戦うとかも無さそうだと思います。助け合った時に生まれた感情を名付けることなく感じていたのではないかと思いました。

  4. まりん より:

    自由という言葉の背景にはこんなに命がけの戦いがあったことに衝撃を受けました。愛もイエスから命じられて意識で隣人を愛せるように努力するものなのだと思いました。江戸時代の日本人にその言葉を言ってもきっと???となったのではないかと思います。愛も自由も言葉として意識されることなく、すでに十分に満たされて生きてると思うからです。とってもステキなことだと思いました。

  5. 小町 より:

    自由の獲得をしないといけなくなったというのは、不自由な自分を感じてしまうのも、すごく考えさせられます。

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