神父さんがテキスト代わりにした本の最初にはこう書いてありました。
「愛は技術か?」
えーーーーーーーーーーーーーーー
すごい問いです。
愛に関して、こんな問いがあるとは思ってもいませんでした。
この本は外人が書いた本です。
原文では
「ラブ は テクニックか?」
とでも書いてあるのでしょうか。
夕方の授業なら僕は言いそうです。
「ボクハ、ミケイケンナノデ、モチロン、テクニックモ、ミジュクデス、アイノ、テクニック、イロイロシリタイデス」
(笑)
しかし僕たちの人間学は月曜日の9:15からでした。
すがすがしい朝に、テクニックを駆使した愛の場面は浮かびません(爆)。
にしても、愛は技術だと思いますか?
愛情は元々備わっている感情だから、対象が現れれば自然と湧き出すもの。と、思っていたのですが、これがそうなのかと悩みまくることばかり。愛や愛情という言葉は、掴み所のない感情を表す言葉と感じています。愛が技術なら、技術獲得の技を義務教育期間に授業で講義していただきたかったと切に思います。でも、誰もが理解しているようで理解できていないことだから、教えることができないまま放置されてきたことのように感じています。
シェアしていただいてとても嬉しいです。森田さんは多感な高校時代、大学時代ととてもいろんなことに遭遇されたのだと思いました。そのなかに愛についてというのもあったんだなと思います。20代の入り口の若者たちに 愛について神父さんたちがどのように授業をされたか伺えるのがとてもうれしいです。もし友達がそういうところにいったら…何かとても興味があります。上智っておしゃれだし可愛い人多いし教会とかもあるし…この門の奥はどんなことしてるとこなのかなっていうのもあるし 神父さん外国の方だったりして…なんかドキドキします。神様とつながってる生のかたたちってどんなことおはなしされるのかなって。月曜の9時15分ですね。休み明けの最初の日、その時、どこかの教室にいる気持ちになって伺うつもりで集中してます。なんだか週の始まりで…家族、友人、彼…朝の通学…あの独特の空気をおもいだしてます
テキスト代わりの本の最初の問いは「愛は技術か?」だったのだと思います。この問いは、もりけんさんに衝撃を与え、この月曜朝の授業はもりけんさんの一生を変える授業だったのだと思います。愛と技術・・ラブとテクニック・・がなんだか結びつかない・・と思っている自分は、愛はすでにあるもの・・自然に生まれるもの・・と思ってたかもしれないと思います。技術だとすれば、それを獲得する方法があり、愛を獲得するには、それをする必要があるみたいに思います。でもそれをすれば誰だって愛のある人になれるということでもあると思います。やり方もなしにただ、愛せよ・・といわれたら、それは無理・・となりそうだけど、技術があると言われた方が、やってみようと思いそうだとも思います。技術だったら、ずっと愛を持ち続けることも出来そうだと思います。
「愛は技術か?」という問いかけは、すごいです。・・やっぱり揺さぶられます。「愛は技術か?」という言葉に、自分がなぜ、揺さぶられるのかといえば、「技術(テクニック)」という言葉の裏に、何か「うわべ」だけであるようなイメージがあるのではないかと思いました。「愛」が、技術であるとするならば、愛が「うわべ」だけであっていいのか・・・そういう葛藤が、自分の中にあるのかもしれないです。
例えば、自動車を運転するのも、テクニック(技術)です。テクニックには、特別な能力も、人並み外れた財産も、崇高な志も・・・特別なことは、必要ないと思います。テクニックであるとするならば、習得すればいいだけです・・。だから、愛が技術であるとするならば、誰でも習得できて、その恩恵にあずかることもできるのだと思います。
人が愛を求めるのは理想郷なところがあると思います。神父さんがテキストとした本には「愛は技術か?」と書かれていて、理想とする愛では無いと思います。神父さんって、究極の愛を語る存在だと思っていました。その神父さんが「愛は技術か?」という本を選んでいると思います。高みからの愛を語らないなんて、すごいです。自分がどんなに愛を示しても、相手にわかってもらえないと愛は通じないのは、確かにあります。技術としてくれたら、技術がまだまだということも出てきてしまうと思います。そういう観点で愛を見ていなかったと思います。朝の爽やかな時間の中で、そのテキストで学んでいたと思います。親しき仲にも礼儀ありというのも、愛の技術な気がします。
愛は技術かという問いに、初めて出会いました。ものすごく衝撃を受けてます。愛と技術を結びつけて考えたことなかったからです。神父さんが使ったテキストは聖書ではなくて、愛は技術か?という問いから始まる本だったのだと思います。その問いに私が衝撃を受けるのは、愛は技術ではないと思ってるからだと思います。聖書で説かれる崇高な愛とはまったく違って、目からウロコが落ちました。愛はもともと備わってるものではなくて、技術として習得していくものだとしたら、とてもすごいです。誰もが習得できるもので、誰も選別してないからです。逆に崇高であるほど、とても自分には手の届かないはるか遠くを感じます。愛が崇高なものよりも技術であるほうが、身近であったかいって思いました。
いきなりすごいと思いました。愛を考えて「技術」は全く思い浮かびませんでした。愛に対してとても抽象的なイメージしか持っていなかったのだと思いました。昨日、髭を剃っていてカミソリ負けして右アゴが少し赤くなりました。なので今朝はゆっくりと優しくやろうと思いました。愛のことを考えていたので、これは一種の自己愛かもしれないと思いました。そしてゆっくりと優しく剃るというのは技術にあたるのかもしれないと思いました。でもちょっと違うような気もします。問われているのは「愛そのものが技術か」ということなのだと思います。愛の表現は技術かもしれませんが、愛そのものが技術かどうかは正直なところ分からないです。私たちが存在するこの時空も、何らかの技術でもって創られているのだと思います。物理方程式もある意味、神が駆使している技術とも呼べそうです。その技術がなければ愛もなかったのかもしれません。そう考えると愛も技術であると言えるのかもしれないと感じますが、ちょっと話が飛躍してしまうような気がします。もっと身近なところで具体的に「愛は技術か?」を考えたいと思いますが、なかなかよい考えが思い浮かばないです。それだけ愛とは自分にとって不明瞭なものなのだと思います。
大学生のもりけんさんの月曜朝9じ15分からは、人間学の授業で、渡されたテキストがわりの本の最初にいきなり、愛は技術か?と書かれていたのだと思います。まさかこんな愛の問いに出会うとは思わなかった月曜日の朝だと思います。一体・・何を言っているのかと思ったのだと思います。愛は技術・・自分では出てこない言葉です。でも、愛は技術か?です。著者の方も、神父さんも、もりけんさんも、愛は技術か?と考えたのだと思います。
「愛は技術科?」という問いは「えーーーーーーーーーーーーーーー
」ってなるほど強烈だったのだと思いました。イマイチ反応が鈍くて、「えーそうなのか」としか反応できない自分がいます。「愛」って愛するの愛しか浮かんでこないです。私の愛は何か貧弱なのかもしれないです。技術として、習得できるなら嬉しいかもしれないと思います。