教科書の続きです。
『現代社会は違いをなくしていこうというような動きの中にある。違いをなくしていこうという傾向は、平等の概念と関係がある。
宗教的な文脈では、平等といったら、われわれはみな神の子であり、誰もが同じ人間として高貴な資質をそなえており、われわれはみな一つである、という意味だった。それはまた同時に、個人と個人は尊重されなければならない。われわれが一体であることと同時にわれわれ一人ひとりは唯一無二の存在であり、それ自体がひとつの宇宙である、という意味でもあった。
- 中略 -
現代では平等の意味は変わってきている。今日、平等といえば、個性のそぎ落とされた人間の平等である。
この点からすると、男女平等のような、ふつうわれわれの進歩のしるしとして賞賛されていることをも、多少なりとも懐疑の目を持って見る必要がある。いうまでもなく、私は男女平等に反対だというわけではない。ただ、平等傾向の肯定的な側面ばかりに目を奪われてはならない、と言いたいのだ。平等傾向も、差違をなくそうとする傾向の一つのあらわれである』
ここから私の意見です。
差違はどこから始まったでしょう?
エデンの園を出た時からですよね。
だから差違をなくそうというのは、前進ではなく後退です。
人と人との違いが大事なのです。
(続く)
これまでこの教科書の記述を読ませていただいて知ったことは、人間の存在は差異が前提であるということです。差異がいらないのであれば、わざわざ人間が誕生する必要もなかったのだと思います。つまり人間を産んだ存在は、わざわざ差異を生みたかったとも言えるのではないかと思います。著者が書かれている「個人と個人は尊重されなければならない」という概念は、つまりこの人間存在の大前提である違いを尊重するということなのだと思います。エデンの園から出た人間が完全に自然から離脱し得ないのと同じように、私たちは神の子としての平等の中に生きていると言えるのだと思います。しかしそれは、すべての差異が平等に重要と言う意味であって、差異を無くすことで達成される平等ではないのだと思います。前者の平等は人間存在の肯定を感じさせ、後者は否定を感じさせる平等であるとも思いました。
現代社会が違いを無くしていこうとしている動きが、「平等の概念」と関係があるという指摘、はそのとおりだと思います。たとえば「男女平等」というと、あたかも「正しい」ことだと、思っている傾向があると思います。昔の時代には、女性には選挙権もなく、現代社会の男女平等は、進歩のあかしとして賞賛されてきたと思います。ですが・・・「平等」の肯定的な側面ばかりに目を奪われてはいけないのだと思います。必ずしも、肯定しえない部分もあるのだと思います。「平等」の中の、肯定的できない側面といえば、人と人との差異を無くしてしまうことなのだと思います。「差異」は、人類が、エデンの園を出たときから、誰もが持ったものだと思います。
平等の意味について、宗教的な文脈での平等と、現代での平等の違いをとても丁寧にわかりやすく説明してくれてます。私はまさに後者で、差異をなくすことが平等だとずっと誤解してきたんじゃないかと思います。なぜなら男女平等に問題意識をもたなかったし、むしろ良いモノだと思ってきたからです。時代をこえて、今も全く色あせずにいかに誤解してるかの核心を突いてくる文章は、問題の本質に迫ってるからだし、私たちはその本質をずっとずっと誤解しつづけたままだからだと思います。
エデンから出たというのは、まさにこの世に個として生まれた私であり、差異から始まってるんだと思います。なのに、その始まりを否定するような生き方を目指してしまってるんじゃないかと思いました。
人と人との違いが大事なのは、エデンの園を出たときからの私を大事にしていることだと思いました。
男女平等を始め、現代の平等は違いを認めず、無くそうとしてるところがあると思います。でももともと平等というのは、誰もが神の子で、それぞれが唯一無二の存在であることが同じであり、それはそれぞれの差異を認めているということなのだと思います。エデンから出た私たちは差異があって当たり前で、その際を無くそうとしてもなくならないし、無くならないのに無くそうとするのはとてもしんどいことに思いました。差異を認めることをすると、人と比べたり、うらやんだりする必要もなくなると思いました。