映画「ワンネス」 愛は人を選ばない 2013/10/02 9:15 AM 教科書の続きです。 『愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛のひとつの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである』 だから母性愛の評価が下がるのです。 愛は人を選ばないのです。 (続く) シェアしましょう ! Tweet « 映画「ワンネス」 母性愛は愛か? 映画「ワンネス」 人と人の違いが大事 » コメント 和佳 より: 2013/10/02 11:56 教科書の続きは…愛は世界全体にたいしての態度て書いてあるんだなと思いました。なんというか小さく小さく応対して日々を生きてる自分にはなんかすごいはなしだなって感じられます。なにか…ほんとに人間同士のことではないようだと思いました…。いま愛がどう乗って聞こえてきて…なんと選ばないって話がつけっぱなしのTVででてます。選んだら旅が終わっちゃうだからそうです。どれもそのときの自分であり選べない 選ぶものではないかもって…うーん…卒業製作だったはずなのに…卒業はしないということみたいだっておもいました。冒険のことみたいです。それましたが…なんかドキドキしてます まるこ より: 2013/10/02 12:54 母性愛、兄弟愛、夫婦愛、家族愛、恋愛・・・広く世の中で使われている愛がついた言葉は、ほとんどが特定の対象を選んでいると思いました。そして私たちはこうしたものが愛であると思ってずっと生きてきていると思います。しかし教科書の著者にとってはこれらの愛は、愛として存在するための条件を満たしているとは言い難いものなのだと思います。著者が考える愛は、個として存在する「私」以外の全てと、どう接するのかという、姿勢やあり方を問うものなのだと思いました。やはり著者が言う愛と「私は誰?」という普遍的な問いとは密接に結びついた存在なのだと思いました。 みっく より: 2013/10/02 14:03 エデンを離れ、自然と離れてしまった人間は、特定の人間を対象にしても、その孤独は解消されないんだと思いました。愛するというと、特定の相手を想像してしまってたと思います。教科書の文章を何度も拝見しています。自分と自分の周囲、自分の外側とどうかかわっていくか・・という感じに思いました。特定の人に対する愛は、特定の人しか持ちえないように感じました。でも世界全体に対して人がどうかかわるか・・というのは、どんな状況で生きる人にも当てはまることではないかと思いました。 選ぶという行為をしてしまうと、そこで見返りを期待してしまってるところがあるように思います。選んだ相手に愛を向けたとき、相手にもこっちを向いてほしいと思ってしまいそうだからです。特定の相手がもしこっちをむいたとしても、それは根源的な孤独を解消はしないのだと思います。 まりん より: 2013/10/02 17:49 教科書を通して、愛とは何かをここまで学んできて、今日は愛の対象について、特定の人ではなくて世界全体というのが、心にストンと落ちました。母性愛は対象をバリバリ限定してます。ほかの愛もそうです。対象を限定しちゃうのは、愛とは何かがわかってないからだと思いました。個の孤独の解消のために、私は誰?を問うのに、対象が限定されてたら、私も限定された母や妻や恋人。。。になってしまいます。世界全体が対象なら、私は誰?もめちゃめちゃ壮大です。 どせい より: 2013/10/02 21:18 「人を選ばない」というと、博愛主義のように聞こえますが、ここで議論している「愛」は、博愛主義とはまったく違うことだと思います。人間がエデンの園を出て、「個」を持ち、孤独になって、「私は誰?」という問いに対する「愛」だと思います。エデンを出て、もう、戻ることはできなくて、前に進むしかなくて、その上での愛というのは、ひとつの「対象」ではなくて、相手は全世界なのだと思います。まわりの世界に対して、どう関わっていくのか・・そういう態度、方向性のことなのだと思います。ある意味、このような状況のとき、個人は世界に向けて、開放していて、「個」でありながら、世界に匹敵しているのかもしれないと思います。 koil より: 2013/10/02 21:42 難しくて、何回も読みました。 愛は個個との関係に対するものだと 思っていました。 世界全体とどう関わるかを 決める態度や性格の方向性が 愛だとは全然思っていませんでした。 愛は人を選ぶ事だと思っていました。 もっと考えてみます。 小町 より: 2013/10/02 23:25 愛が人を選んでは無いことに本当にホッとしています。「人間の条件」の言葉を聞いた時に人間に条件があるのだろうかと思って、ずっと疑問でした。愛に条件は無いことで、人間にも条件が無いんだと思いました。自分が愛するだけでいいんだと思ってきて、そこには条件なんか気にしなくていいんだと思いました。 こはな より: 2013/10/03 00:19 愛は人を選ばない・・のだと思います。愛は「私は誰」への回答でなければならない・・とありました。もしかしたら、世界全体、私以外の発している「私は誰」という問いに、私が回答することが、愛なのかもしれないと思いました。
教科書の続きは…愛は世界全体にたいしての態度て書いてあるんだなと思いました。なんというか小さく小さく応対して日々を生きてる自分にはなんかすごいはなしだなって感じられます。なにか…ほんとに人間同士のことではないようだと思いました…。いま愛がどう乗って聞こえてきて…なんと選ばないって話がつけっぱなしのTVででてます。選んだら旅が終わっちゃうだからそうです。どれもそのときの自分であり選べない 選ぶものではないかもって…うーん…卒業製作だったはずなのに…卒業はしないということみたいだっておもいました。冒険のことみたいです。それましたが…なんかドキドキしてます
母性愛、兄弟愛、夫婦愛、家族愛、恋愛・・・広く世の中で使われている愛がついた言葉は、ほとんどが特定の対象を選んでいると思いました。そして私たちはこうしたものが愛であると思ってずっと生きてきていると思います。しかし教科書の著者にとってはこれらの愛は、愛として存在するための条件を満たしているとは言い難いものなのだと思います。著者が考える愛は、個として存在する「私」以外の全てと、どう接するのかという、姿勢やあり方を問うものなのだと思いました。やはり著者が言う愛と「私は誰?」という普遍的な問いとは密接に結びついた存在なのだと思いました。
エデンを離れ、自然と離れてしまった人間は、特定の人間を対象にしても、その孤独は解消されないんだと思いました。愛するというと、特定の相手を想像してしまってたと思います。教科書の文章を何度も拝見しています。自分と自分の周囲、自分の外側とどうかかわっていくか・・という感じに思いました。特定の人に対する愛は、特定の人しか持ちえないように感じました。でも世界全体に対して人がどうかかわるか・・というのは、どんな状況で生きる人にも当てはまることではないかと思いました。
選ぶという行為をしてしまうと、そこで見返りを期待してしまってるところがあるように思います。選んだ相手に愛を向けたとき、相手にもこっちを向いてほしいと思ってしまいそうだからです。特定の相手がもしこっちをむいたとしても、それは根源的な孤独を解消はしないのだと思います。
教科書を通して、愛とは何かをここまで学んできて、今日は愛の対象について、特定の人ではなくて世界全体というのが、心にストンと落ちました。母性愛は対象をバリバリ限定してます。ほかの愛もそうです。対象を限定しちゃうのは、愛とは何かがわかってないからだと思いました。個の孤独の解消のために、私は誰?を問うのに、対象が限定されてたら、私も限定された母や妻や恋人。。。になってしまいます。世界全体が対象なら、私は誰?もめちゃめちゃ壮大です。
「人を選ばない」というと、博愛主義のように聞こえますが、ここで議論している「愛」は、博愛主義とはまったく違うことだと思います。人間がエデンの園を出て、「個」を持ち、孤独になって、「私は誰?」という問いに対する「愛」だと思います。エデンを出て、もう、戻ることはできなくて、前に進むしかなくて、その上での愛というのは、ひとつの「対象」ではなくて、相手は全世界なのだと思います。まわりの世界に対して、どう関わっていくのか・・そういう態度、方向性のことなのだと思います。ある意味、このような状況のとき、個人は世界に向けて、開放していて、「個」でありながら、世界に匹敵しているのかもしれないと思います。
難しくて、何回も読みました。
愛は個個との関係に対するものだと
思っていました。
世界全体とどう関わるかを
決める態度や性格の方向性が
愛だとは全然思っていませんでした。
愛は人を選ぶ事だと思っていました。
もっと考えてみます。
愛が人を選んでは無いことに本当にホッとしています。「人間の条件」の言葉を聞いた時に人間に条件があるのだろうかと思って、ずっと疑問でした。愛に条件は無いことで、人間にも条件が無いんだと思いました。自分が愛するだけでいいんだと思ってきて、そこには条件なんか気にしなくていいんだと思いました。
愛は人を選ばない・・のだと思います。愛は「私は誰」への回答でなければならない・・とありました。もしかしたら、世界全体、私以外の発している「私は誰」という問いに、私が回答することが、愛なのかもしれないと思いました。