この話題は書くのをやめようかと思いましたが、やはり書きます。
教科書の著者は、母性愛をまったく評価していません。
しかし世間ではそうではありません。
見返りのない愛・無償の愛…として褒め称えられています。
まるで愛のお手本のように…です。
教科書の著者がなぜ母性愛を評価しないかというと、動物でも同じことをするからです。
私たち人間はエデンの園を出ました。
そこで初めて孤独を感じました。
著者は言います、前進しなければならない…と・
でも母性愛は後退のイメージすらあります。
エデンを出た愛は「私は誰」の回答でなければなりません。
だとすれば、母性愛の評価は低くなってしまうのです。
著者の愛についての真剣な考察がとても胸にきます。愛とは何か?すべての人が共有できるあ問題として考察し続けていくと、その誕生はエデンの園からの追放に根ざしてます。個としての孤独を感じ、私は誰?という問いへの結果が愛だとしたら、動物と同じではないです。でも、母性愛は動物も同じ事をするからという理由は、ホントにその通りです。母性愛のような本能と愛を混同しちゃって、愛とは何か、人それぞれでわからなくなってしまうのかもしれないと思いました。
動物でもする母性愛は、著者が言う「新しい調和」ではないのだと思います。それどころか母性愛を愛だとしてしまうと、人間がエデンの園へと引き戻されるという感さえあるのだと思います。でも人間は決してエデンの園へは戻れないのだと思います。人間は前進すべく生まれた存在なのだと思います。著者が論じている愛は人類にのみに当てはまる愛なのだと思います。それは人類のみが「私は誰?」を問うことができるからなのだと思います。理想の愛のようにもてはやされている母性愛は、人類が愛と呼ぶにはふさわしくないものなのではないかと思いました。
読んでると…おおよそ動物がするようなことは…愛情といわれるものでも全く評価されないのだなとおもいました。この授業は人間学と伺ったなとおもいます。人はなにか動物ほどの生き様も持てないし…かといって人はこうだといえるほど特徴が何なのかもむずかしいなぁって思います。微妙に自然にくっついてるなぁっておもいます。そこで動物的に後退するのは…なんかちがうのですね。いったいどういうものなのかさっぱりわからないから…もっともっとは離れて進んでみたらどうだろうかって言われてるみたいです。でもなんかそれてすごいなとおもいます。(頭のなかは電子レンジです!マイクロ波取り出しぐらいなんか…ドキドキです)私は占いが好きなのですが…もし著者と話すことがあったら…運命の内にあるものはどんなものであれ全く愛ではないですっていわれるかもしれないなって感じました。
母性愛というものもなんだか特別扱いしてたかもと思います。でも動物でもある母性愛は人間がエデンを離れて持った孤独を解消しないだけでなく、前進しなければならないのに、元のエデンに戻ろうとするようなものなんだと思います。母性愛で解消されるのは、この本に書かれている孤独でなく、人間関係による孤独かもと思います。これまで思っていた愛は、ほとんど、見た目にそう見えるだけの愛だったかもと思います。私は誰?の答えとしての愛は、人間と動物のとても大きな違いだったんだと思います。
母性愛・・というと、私も、これまで「無償の愛」と思ってきました。ですが、教科書の著者は、母性愛をまったく評価されていないのですね・・。
人間は、エデンの園を出て、そこで初めて「個」という意識を手に入れたと思います。だから、基本、「個」のままなのだと思います。母性愛の基本は、母性との融合なのかもしれないです。それは特に小さな子供とか、心地よいのかもしれませんが、己が「個」であることを、わからなくさせるような効果があるのではないかと思います。エデンを出た愛は「私は誰?」の回答でなくてはならなくて、だから「母性愛」の評価は低くなってしまうのだと思います。
母性愛は動物でもある本能だと思います。だから最高の愛だと称されているけれど、教科書では評価が低いと思います。でも、母性愛に憧れるのはやはりエデンの中にいたいになっていると思いました。エデンはそれほど強力だと思います。母性愛には逆らい難いです。その愛を離れることで、本当の愛を学ぶことだし、実践できるのは「私は誰」からだと思います。違っているからこそ愛が始まってくると思います。
私は母性愛は、子供のためではななく
母親自身のための行為ではないかと思っていました。
そのことで、よく喧嘩をしました。
子供を一番に思っているとか言われると
どちらかと言うと嫌な気持ちになりました。
でも別に悪いことでないと思ってもいます。
ただ、子供を一番に思っているということを
表に出さないで、自分がやりたいからやっていると
言ってもらえると気持ちがすっきりしました。
子を産み育てるのは動物でもしていることなので、エデンの園を出た人間の愛とは言わないのだと思います。「私は誰」と思えるのは人間だけなのだと思います。