映画「和」 自由と天下御免

2014/04/05 6:49 AM

  
 FREEDOMを福沢諭吉が自由と訳したことは書きました。
 諭吉にはもうひとつの候補があったと言われています。
 それは、天下御免です。
 辞書には「だれにもはばかることなく,堂々と,それをしてよいこと。公認されていること」とあります。
 自由という単語が持つイメージとはだいぶ違います。
 福沢諭吉がFREEDOMを天下御免と訳したなら、三度の戦争が起きなかったかも知れません。
 なぜなら天下御免には、周囲を気にするニュワンスが感じられるからです。
 それとは違い、自由には自分が源(みなもと)という考えがあり、自分が世界の中心であるかのようです。これは本来、日本人が持っていた気質ではないと思います。
 自由が輸入された時から日本は変わり始めたと思います。
 戦争に向かって・・。


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コメント

  1. 小町 より:

    自由と天下御免、FREEDOMのイメージが違ってきます。天下御免なら周囲がそのことを認めないとやってはいけないという制御になる気がしてきます。みんなが認めて初めてできるみたいなものだと思ってきました。自由は好き勝手に自分で誰の許可とかも必要ないもの、かなりの差があると思います。戦争にならなかったかもが深いです。自分だけでいいは元々の日本人の気質には無いものだと思ってきます。世間とか周囲に向いていたものが自由と思うことで自分だけになる、だから戦争に発展してしまうことをもっと考えたいです。

  2. どせい より:

    たしかに「天下御免」という言葉には、周りからもそれを公認されているようなニュアンスがあると思います。「天下御免」は、天下に対して視点が向いていますが・・・・「自由」は、本当に自分が源です。視点が自分が中心になってしまっていると思います。自分が何をしたいか・・そこが中心になってしまっていると思います。

    ずれるかもしれないのですが、日本は戦争に向かっていきましたが、戦争の戦い方も、他国と比べると違うのではないかと思います。「特攻」とかに象徴されるように、日本人は、「個」を「全体」に対してささげて、それを美徳とする戦い方をしていたのではないかと思います・・。それは方法論としてはともかくとして、精神論としては、日本人の心を打ったのではないかと思います・・

  3. まるこ より:

    自由と天下御免のニュアンスの違いに驚きました。天下御免という言葉が候補に上がっていたということにも驚きです。天下御免には自分よりもまず世界があるという意味が含まれているように感じます。まさに先日書かれていた「世界が自分を創り出している」という前提があるように感じます。それに比べれば、自由はまるで自分が神にでもなったような非常に強い個の拡張を感じます。視点が内側に向いていて周囲が見えなくなってしまう印象を受けます。これまで鎖国の江戸時代が終わり明治維新によって日本が開国し、日本人の視点が世界に広がったように思っていました。でも実はまったく逆のような気がしてきました。「自由」が輸入されることで、日本人の視野はどんどん内向きになり狭くなってしまった。その結果が明治以降、立て続けに戦争をするようになった日本であり、その流れはグローバル化がうたわれている現在も基本的に変わっていないように思えます。

  4. なんしぃ より:

    日本が戦争に向かって変わり始めたきっかけが、自由ということの輸入の可能性があるのだと感じました。今までの日本人にはなかったことだったのだと思いました。自由を獲得するために、争うことが起こるかもしれないと感じました。その時の自由は、自分に理由があり、自分を世界の中心としている考え方であり、周りを無視しているような感じを受けました。天下御免には、周りと一体を感じました。周りと一体感があったら、戦争を起こすという考えもでなかったように感じました。自分が世界の中心であるという考え方は、とても思い上がった思想であるように感じました。それはもともとは日本人にはなかった輸入された言葉であったのだと思いました

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