映画「ワンネス」「和」 自己超越は弱い自分 2014/06/23 8:12 AM 昨日は、生まれ変わりの村の人たちは自己超越しているのではないかと書きました。 マズローの五段階は人間に強さを求めるものだと思います。 第五段階の自己実現はまさにそうです。 思いが実現するという思想ともマッチして、強い自分が要求されそうです。 でも第六の段階の自己超越は、そうではないと思います。 弱い自分を認めることだと思います。 弱い自分を認めれば、他者に対しても自然に優しくなれます。 シェアしましょう ! Tweet « 映画「ワンネス」「和」 時代は自己超越へ2 映画「ワンネス」「和」 自分を手放す » コメント 小町 より: 2014/06/23 09:04 弱い自分はどの段階でもいると思います。それを認めたくなくて、強い自分に変わらなければで、目指していくと思ってきます。だから理想の自分や夢が自分だとしてしまいやすいと思います。努力している自分は出来る自分を作りだしていくと思います。もりけんさんの余生の意味がここにあるという気がします。目指してもたかが知れている、それはやはり外側に向いている視点だと思います。時に人は弱さを武器にしたりします。でも実際、それは口実だと思います。本当に自分の弱さを認めていたら、突きつけたり正当化したりしないと思いました。夢を実現している時、世界は自分が作りだしている錯覚に陥ると思います。そんなに世界は小さくないんだと思います。弱い自分を知るのは、世界の方が断然大きいと認めることにもなってきそうだと思います。その中でただ生きている存在だと思ってきます。その中で誰かが偉いというのも強いというのも無いんだと思うことで、優しさを感じると思えます。それが他者に向かう優しさになるように思ってきます。 こはな より: 2014/06/23 12:19 弱い自分は私にもいますが、認めないで、隠そうとしてきました。それが私の強くなりたいだと思いました。階段をあがりたくないと思いました。弱さを認めたいです。 なんしぃ より: 2014/06/23 23:39 生き残りを考えたときに、戦って強いものが勝ち残るとか、強いから長生きするとか、強いから自分の自己実現が達成するまで耐え続けることができると考えてきたと思います。でも人は一人では生きていけないと感じます。自分がどれだけ強くなろうが、たくわえようが筋肉や知識をつけようが、それは個としての生き残りしか考えていなくて、ほんとうの生き残るということは、全体なのかもしれないと、読んで感じました。強いものだけが生きてより生きてではなくて、弱いから弱いもの同士だから相手を必要としあって、弱いから自力ではなくて、おまかせになって、そのときは個でありながら争うとかではなくて、全員が誰もが生きる世界である感じがしました まりん より: 2014/06/24 00:45 マズローさんの5段階の欲求と、その上にある自己超越の欲求とを、強い自分と弱い自分という視点から初めて考えました。はじめの5段階の欲求は、生まれてきたばかりの弱い自分が生きていくために必要な欲求を1つ1つ満たして最後には自分の思いを実現していく展開で、弱い自分からどんどん遠のいて強い自分に向かっていくような欲求だと思いました。けれど、第6の自己超越では、はじめの5段階の欲求を満たす前の弱い自分に気づいていて、その自分をそのままでいいと認めて初めて外側に対して目がいき、他者に対して優しくなれるのかもしれないと思います。 生まれ変わりの村の方たちは、死ぬときも生まれ変わるときも自分ではどうすることもできず、死んだことにすら気づかないうちに生まれ変わっています。そんな時空を信頼してるというお話があったけれど、自分が生きて存在してるのは自分ではなく外側のおかげだと身をもって深く感じてるのではないかと思いました。私はこの世に生まれた記憶しかなく、生きていくための欲求を満たすことで強い自分を目指してきたのだと思います。証言者の方との大きな違いは、弱い自分に強さを求めるか、弱い自分をそのまま認めるかなのかもしれません。弱い自分を認めてはじめて他者に対しても同じように優しくなれるのかもしれません。強い自分になろうとすればするほど、自分や相手の弱さを否定しつづけてるのかもしれないと思いました。 こうして問われてみて、自己超越と弱い自分とが結びついてることにもはじめて気づきました。
弱い自分はどの段階でもいると思います。それを認めたくなくて、強い自分に変わらなければで、目指していくと思ってきます。だから理想の自分や夢が自分だとしてしまいやすいと思います。努力している自分は出来る自分を作りだしていくと思います。もりけんさんの余生の意味がここにあるという気がします。目指してもたかが知れている、それはやはり外側に向いている視点だと思います。時に人は弱さを武器にしたりします。でも実際、それは口実だと思います。本当に自分の弱さを認めていたら、突きつけたり正当化したりしないと思いました。夢を実現している時、世界は自分が作りだしている錯覚に陥ると思います。そんなに世界は小さくないんだと思います。弱い自分を知るのは、世界の方が断然大きいと認めることにもなってきそうだと思います。その中でただ生きている存在だと思ってきます。その中で誰かが偉いというのも強いというのも無いんだと思うことで、優しさを感じると思えます。それが他者に向かう優しさになるように思ってきます。
弱い自分は私にもいますが、認めないで、隠そうとしてきました。それが私の強くなりたいだと思いました。階段をあがりたくないと思いました。弱さを認めたいです。
生き残りを考えたときに、戦って強いものが勝ち残るとか、強いから長生きするとか、強いから自分の自己実現が達成するまで耐え続けることができると考えてきたと思います。でも人は一人では生きていけないと感じます。自分がどれだけ強くなろうが、たくわえようが筋肉や知識をつけようが、それは個としての生き残りしか考えていなくて、ほんとうの生き残るということは、全体なのかもしれないと、読んで感じました。強いものだけが生きてより生きてではなくて、弱いから弱いもの同士だから相手を必要としあって、弱いから自力ではなくて、おまかせになって、そのときは個でありながら争うとかではなくて、全員が誰もが生きる世界である感じがしました
マズローさんの5段階の欲求と、その上にある自己超越の欲求とを、強い自分と弱い自分という視点から初めて考えました。はじめの5段階の欲求は、生まれてきたばかりの弱い自分が生きていくために必要な欲求を1つ1つ満たして最後には自分の思いを実現していく展開で、弱い自分からどんどん遠のいて強い自分に向かっていくような欲求だと思いました。けれど、第6の自己超越では、はじめの5段階の欲求を満たす前の弱い自分に気づいていて、その自分をそのままでいいと認めて初めて外側に対して目がいき、他者に対して優しくなれるのかもしれないと思います。
生まれ変わりの村の方たちは、死ぬときも生まれ変わるときも自分ではどうすることもできず、死んだことにすら気づかないうちに生まれ変わっています。そんな時空を信頼してるというお話があったけれど、自分が生きて存在してるのは自分ではなく外側のおかげだと身をもって深く感じてるのではないかと思いました。私はこの世に生まれた記憶しかなく、生きていくための欲求を満たすことで強い自分を目指してきたのだと思います。証言者の方との大きな違いは、弱い自分に強さを求めるか、弱い自分をそのまま認めるかなのかもしれません。弱い自分を認めてはじめて他者に対しても同じように優しくなれるのかもしれません。強い自分になろうとすればするほど、自分や相手の弱さを否定しつづけてるのかもしれないと思いました。
こうして問われてみて、自己超越と弱い自分とが結びついてることにもはじめて気づきました。