星座は紀元前15世紀にギリシャ神話をもとに作られました。
旅人や船乗りが位置を知るために使いました。
旅は危険で孤独でもありますが、夜空に展開されるギリシャ神話に勇気をもらったと思います。
でも10世紀ころになると羅針盤ができて、星座で方位を見ることはなくなりました。
現代(17世紀)になって新設された星座があります。
はと座です。
それほどまでにキリスト教は星座に入れたかったのでしょうか?
私はゼウスに「チッチェエ男」というあだ名を付けましたが、それ以上にチッチェエです。
これは宇宙天文検定を受けるときに使った「星座がもっと見たくなる」の1ページです。
生まれ変わりの村の情報が広まり、スープを回避する人が増えた場合、前世でクリスチャンであったとか、はと座を入れた関係者であったかもしれないと自分のことは覚えていませんが、自分もギリシャ時代に生きた記憶や、はと座の神を信じて生きた記憶があったとしたら、やはり、実体験で裁きがなかったかどうか体験することは、なにものにも変えられないデータのような気がしました。そして、自ら自然と、はと座を必要としなくなるような気がしました
星座や、元になったギリシャ神話も誰かに勇気を与えるものだったり、羅針盤もそうだと思いました。でも後からはと座に入るのはキリスト教のためだけだと思いました。
夜空の星座たちは3500年も前からずっと変わらずに、ギリシャ神話の神たちの物語と共に愛され続けてきたのだと思います。それは私たちを癒やしたり元気づけてくれたからです。はと座の神は私たちを善悪で評価し裁いて皆殺し。。。恐怖しか出てこないです。
ギリシャ神話では生命全開だった神がなぜかキリスト教にかかると生命を「後悔」する神になってしまうんだと思いました。キリスト教の神が生命に後悔して改革してやった証として何がなんでもハト座を入れたかったんだと感じました。ハト座を後付けして、逆にそのチッチャさを露呈してしまっているようなものだと思います。