高一の下校時、中央線に乗って立川駅で降り、乗り換えるために地下道を歩いていたときのことです。
声が頭の中に響いたのです。
「上の電車に乗って」
僕は思いました。
「えーー、上の電車に乗れば、また高校のほうに行っちゃうじゃないか」
声はもう一度しました。
「上の電車に乗って」
僕はUターンしました。
ホームではすでに発車のベルが鳴っています。
階段を一段飛ばしで駆け上がり、ドアが閉まりかけているところに飛び乗りました。
目の前に同じ高校のバッジを付けた子がいました。
飛び乗った電車は特別快速東京行きで、高校の駅には止まりません。
目の前にいた女の子が言いました。
「どうしたの?」
同じ声でした。
「君の声が聞こえたんだ」
これがきっかけで付き合うようになりました。
何が言いたいかといえば、カノジョを「選択」したわけではありません。
って言うか、学校イチの美人だったので、身長148センチでクリクリ坊主の僕としては、校内で知りあったとしても圏外でした。
さらに教室は校舎の端と端で下駄箱も違うので、こういう形でしか出会えなかったと思います。
昨日のタイトルは「流される人生」でした。
きょうのタイトルは「流れに乗る」です。
どちらも同じです。
そこに自分の意志はないのですから…。
神が人間に自由意志を持たせなかったとしたらそれは、より生きて欲しいからのように感じました。意識があると安定を好むと思います。流されるとか流れに乗ることは勇気がいるように感じます。不安定でどうなるかわからないところに無我夢中で我を忘れて飛び込む感じがします。受け身で自由意志もなく生きるには今を大切に生きる生命を出し切る、命懸けで生きる姿を感じました。神は人間により生きて欲しくて自由意志を与えず、今をすべて受け入れ無我夢中でより生命的に生きるということを探究し続けているように感じました。神は人間をより生命的に生かしたいのだと感じました
何度も読んでも、本当にすごい出会いだと思いました。流れに無駄がないと思います。まだ考えてみます。
「流される人生」と「流れに乗る人生」、もりけんさんの例は、本質は同じことを言っているのはずですが、受け取る自分の側が、異なった印象を持ってしまいがちだと思います。あたかも「流される」方は、先が見えないことに抵抗感を感じてしまい、逆に「流れに乗る」方は、自分の意思が反映されそうな感じがします、、、。ですが、これらはどちらも同じで、共通点は、自分の意思がないことなのだと思います。
学校イチの美少女とお付き合いすることになったのすら、、、自分で選択したわけではないというエピソードは、とてもキます。
森田君は自分の意志に逆らってUターンしたのだと思います。この部分が「流れに乗る」なのだと思いました。自分の意志に逆らってでも流れに乗る。一般的によく言われる自己啓発的な発想は「自分の意志で流れを作る」だと思います。森田君の立川駅でのUターンは自分の意志とは全く関係のない外側から突然やって来た流れに乗れるかということを問い掛けていると思います。人は流されることを恐れて抵抗するものだと思います。でもこれはさらにその先を行っているような気がします。抵抗している暇はなく、瞬時に自分の意志とは逆の行動に出なければ乗れません。考えている暇はないです。でも流れに乗った先にあったのは、一瞬の非常識な行動で乗らなければあり得なかった出会いなのだと思います。これも既に中学生のときから「人は外側で変わる」と、森田君の意識が外側に向いていたからできたことなのかもしれないと思います。外側からのサインを信じていなければ、取れない行動だったのではないかと思います。自分という「個」の意志よりも、外側を優先させた。その結果が学校イチの美女との出会いだったのではないかと思いました。
「上の電車に乗って」その声に従った森田君は、「選択」していないです。どんな出来事が待っているのかさえわからなかったと思います。ただ、声の言うとおりに従ったら、こんな素敵な出来事が待っていたんだと思います。
「流される人生」と「流れに乗る」とは全く別なもののように思っていました。流れに乗るは、自分でさがしたり見つけたり、自分の意志で行動することなのだと思っていました。でも、「流れに乗る」は「向こうから来るものに乗ることなのだなと思いました。「流される人生」も「流れに乗る」も自分の意志はないことで同じだったのだなと思いました。高校一年の時、「上の電車に乗って」の声に、「えーー・・・」と抵抗しながらも流れに乗ったのだなと思いました。自分の意志はそこにはなかったのだと思いました。意志があったら電車には乗らなかったのかもしれないと思いました。ほんとにスゴイ出来事であったんだなと思いました。
突然聞こえた不思議な声に、えーー・・と思いながらもUたターンしてダッシュした森田君だったんだと思います。帰る方向とも違い、誰に呼ばれたのかもわからず、なんで声が聞こえたのかもわからず、行った先に何があるのかもわからないまま、とにかくダッシュをしたのだと思います。そして行った先には学校イチの美人の女の子が・・本当にお二人は思いがけない出会いをされたのだと思います。
流れに乗るというときの「流れ」は、自分の外側だと思いました。もりけんさんが流れに乗るとき、「流れに乗るぞ!」と思ってるわけでもないと思います。流れに乗らざるを得ない状況に抵抗していないという感じがします。流されるのも、流れに乗るのも、その先どうなるのかわからなくても、自分の意思は出さず、外側に身をゆだねていると思いました。
森田さんは声にしたがったんだなと思います。自分はやっぱできないことだなって感じました。そういうのが流れに乗ることなんだなって思いました。流されるのも流れに乗るのもできたことないです。どちらも自分の意志はない…自分は自分が意志がないという状態になったことないなって感じました
ある時すごい声で『愛している!』と言う叫び声が聞こえました。補聴器はその時していませんでした。その後その日に会社の同じ職場のおじいちゃんが突然死をされたことを知り、あれは彼の叫び声だったのかと瞬間に思いました。人類的な愛だったと思います。お葬式に行きました。乗った流れはそれ位でした。もりけんさんは生きている人の声をキャッチされ、付き合うようになったことを聞いて、この違いは何だろうと思いました。わたしのような経験をされた方は他にもいそうだと思いますが、もりけんさんのような話は少ないのではないかと思いました。今に生きるもの・絶望されていた方と、未来を見ていたりしていたものの違いなのかなと思いました。