昨日は、「100年たっても君を愛している」という夫の手紙(過去のもの)に「今でも同じ気持ちですか?」というのに続き「今でも想っていますか?」と問いかける歌の話でした。
太田裕美の歌はこれで終わります。
男がいくら「100年たっても君を愛している」と言ったところで、それはそれです(爆)。
太田裕美の歌は見抜いています。
若松健治という人の作詞です。
今回僕は輪廻転生の歌を作詞しましたが、未来に対する決意は入れていません。
やれば男のエゴになります。
男は元々エゴですが(笑)
「100年たっても君を愛してる」という夫のラブレターに問いかける妻という歌詞は、男のエゴを見抜いていてたのだと思います(笑)男性は元々エゴ。。だからこそこの歌詞には男性達みんなヤバイと汗が出そうになるんだと思います(笑)もちろん女性もエゴだけど、この歌詞はそんな男性のエゴを女性の視点から歌ってて、だからこそ男女ともにドキッとするのかもしれません。100年という時間には生まれ変わりも当然入ってくるけれど、そこまでは考えてなくて熱い想いから出てきた言葉だなって思いました。けれど、今もりけんさんが作詞された「生まれ変わりの村」は、実際に生まれ変わりを繰り返す中で出会う相手。。。運命の君です。それは異性だけじゃなく同性だったり親子だったりするかもしれない君です。前世を記憶したまま生まれ変わっていく世界では、未来に対する決意どころじゃないです。そんな永遠の巡り合わせの中で出会えて、さらに再会していくのを想像したら、それだけで愛しい気持ちになるんじゃないかと思います。歌詞はとても優しくて心地良いのも、未来への決意ではなく、永遠の生まれ変わりの世界に気づくだけでいいからだと思います。そんな世界で出会える君はそのままで愛おしいです。
それはそれ・・もし聞いたら、えーと・・って言われるかもしれないので、女性も聞かないのかもしれないと思いました(笑)決意が元々なければ、この問いは生まれないのかもしれないと思いました。
これは男性の作詞だったのだなとおもい関心しました。私は今世は女子やってるのですが…100年たっても愛してるよ…だけではなく…愛してるよ…にはなんとなく永遠的なニュアンスを感じてしまい…全然そのへんスルーで腑抜けで甘くなりがちです。そういうときに「今でも想ってる?」ってなんかでてこないし 自分のなかでは愛が減ってもマサカ…愛してないってことはないだろぐらいに拡大解釈です。男性の作詞っておもしろいなって思いました。今度なにかの歌を聞くときは作詞が男女のどっちかにも注目してみようと思いました。
森田さん輪廻転生の歌は…未来に対する決意がはいってないんだなとおもいました。…なんだか転生して森田さんにあってみたい気持ちになりました。…今まで語られてた転生観って…今世のやり残しとか課題を解決しようとしてまた出会うってものだったとおもうので。もしもそういう視点の中で「100年たっても愛してる」って歌うときは…なんかどっちかに課題が残ってるんだと思います。あと森田さんはもともと未来へ決意ってのをあまりもってないんじゃないかなって思いました。でないと…100年たっても愛してる!に隠れたなんかが過剰ていうのに気が付かないとおもうので。とても繊細な歌詞作りをされてるんだなぁって感じました。
未来が決まっているならば、決意というものをしたところでなるものはなるしならぬものはならぬ感じがしました。そのような決意を生まれ変わりの村の人たちには感じませんでした。むしろ選べないということを証言している人ばかりだったと感じます。どうなるかわからないということ、それでもおまかせで時空を信頼している感じがしました。決意を入れないこと、エゴが入らないことは、時空を信頼している感じがしました
未来に対する決意」というのは、日常でも耳にすると思います。「もう、○○は絶対にしません。」とか、「私は、将来○○になります。」とか・・。未来に対する決意の言質をもって、その人の評価をする場合もあると思います。しかし、未来に対する決意があっても、それはそれで、いくら意識でそのように決意しようと・・結果はまた別だと思います。
そういう意味では、未来に対する決意は、エゴ的だと思います。森田さんは、輪廻転生の歌を作詞されても、未来に対する決意は入れないのだと思います。決意を入れてしまって100年後に「今でも同じ気持ちですか?」と問われたら、下を向くしかなくて、だとしたら、入れないほうがエゴの入らない普遍の歌になるのかもしれないです(笑)
100年待てないから今もそうであってほしいは女性の要望だと思います。未来の決意を言ってしまえば、約束したという事実になるようだと思います。それを男のエゴというのが鋭いと思います。未来になるとあの時の気持ちだからともなってきそうです。未来の変化の中にいる自分は想像しがたいと思います。価値観は変わると思います。愛するという決意は愛じゃないんだと思ってもきます。