映画「ワンネス」 自分をカラッポにすることが愛 2013/10/13 6:57 AM 教科書には、自分を表出することが愛だと書いてありました。 表出すると、自分はどうなるでしょうか? カラッポになるはずです。 残っているのなら、まだ全部出ていません(笑)。 今まで、愛は蓄電池のように考えられていたと思います。 自分を愛で満たせば、それで相手を愛することができる…と。 自分を愛することが重要だと言われるゆえんもここにあるような気がします。 でも自分をカラッポにすることが愛なんです。 シェアしましょう ! Tweet « 映画「ワンネス」 愛は相手を愛に変える 映画「ワンネス」 愛は基本最低限のもの » コメント なんしぃ より: 2013/10/13 14:09 もりけんさんの表現は、蓄積を全く感じません。それどころかまだ出すのかとおしみなく生命を相手を選ばず差別もしなくて、いつでもどこでも出されていると感じます。もりけんさんの本や独り言やメインを読みその問題提起を思考しているとき本当に生きていると感じます。日常に起こる現場の様々な出来事に対して今までは逃げたいとか逃避してきたと感じます。もりけんさんの表現を情報を受けて、自ずと物事に対して気持ちが変化したような気がしています。自分の意識でどうにかしようとか自分の力で人生を切り開こうという気持ちを諦めようと思うようになってきたと感じます。生きることが苦労とか苦痛ではなくなる感じがします。もりけんさんからの出し切っている姿や情報は、この世で生きるということ流れにのる勇気が出て生きることに喜びと勇気が出てきます まるこ より: 2013/10/13 18:05 ゼロ次元を思いました。もちろんゼロ次元がどんな次元なのか、自分にはぜんぜん分かっていないです。でもこれまでの蓄電池のように考えられていた愛は、次元を上げれば上げるほど愛が豊かになると考えらていたのではないかと感じました。先日、書いてくださったスピ系の記事にあった愛などは、まさにそんな印象を受けました。でも、教科書の愛は全く逆なのだと思います。愛すれば愛するほど、自分はゼロに近づくのだと思いました。それがどんな状態なのか実感としては分からないです。まだまだ自分は空っぽ感がないので、ぜんぜん出ていないと思います。でもこれから出せばいいのだと思いました。自分がカラッポというのが、教科書に書かれている愛の一つのバロメーターでもあるのだと思いました。 みっく より: 2013/10/13 18:19 思い切り出せば、カラッポになるんだと思います。それでいいんだと思います。愛は満たすものではない・・というのは、そう言うことなんだと思います。与えるものだから、たまるはずないんだと思います。愛は蓄電池のよう・・って、今まではほんとにそう思ってきたと思います。愛に満ち溢れてることがいいことみたいに。。満ち溢れるほど持ってるのは全然与えたりないのだと思います。与える人はカラッポになるんだと思います。カラッポになるから、相手の中に息づいたものをそのまま受け取れるのかもと思います。常にカラッポだから、今、この瞬間に生まれ、息づいてるものを相手に与えられるのかもと思います。考えてると、愛ってとても躍動的だと思いました。 どせい より: 2013/10/13 18:22 出し切る・・・のですね。残っているのならまだ全部出ていない、というくらい出し切るのだと思います。すごいです。「愛は蓄電池」の発想とは、まるで逆です。蓄電池は、自分にためて、その余力を相手に注いだと思います。余力を出すのなら、自分は減らないです。出し切るは、自分のを出してしまっています。それで・・空っぽになってしまっています。全然、「余力」でないです。ですが、とにかく出し切るのだと思います。 お話を聞いていて、先日参加させていただいた「トラさんセミナー」を思い出しました。あのセミナーも、講師の方々も、もりけんさんも、出し切っていたのではないかと思います。さらに、受講生だってそうです。みんな三人の姿を見て、こちらも喰らいついていくのに必死で、出し切っていたのではないかと思います。誰にも余力もないほど、みんなギリギリまで出し切っていたのではないかと思います。 こはな より: 2013/10/14 00:47 自分を表出するのが愛だから、自分をカラッポにすることが愛・・教科書に書かれていることも、もりけんさんの文もすごくわかります。自分の中に生まれたものをその瞬間、バッと出してしまったらホントにからカラッポだと思います。すごくカッコいいです。自分の中に生まれたものだって何が出てくるかわからないし、その瞬間しかないもので、出さないと愛ではないのだと思います。 koil より: 2013/10/14 00:59 表出すことは 空っぽになることまでだとは 考えていませんでした。 今までは多分 全部出しきっていないのだと 思います。 これからは自分を出し切ることを 意識していきたいと思います。 小町 より: 2013/10/14 08:04 自分をカラッポにしている愛が本当に今まで思っていた愛と逆だと思いました。自分の中のものを蓄えていないと与えられないとずっと思っていましたが、カラッポにするのが愛なんだと思います。不思議です。カラッポにすれば、自分も無くなると思ってしまっていました。でも、もりけんさんを見ているとカラッポだから純粋なものだけが輝いている気がします。愛は表現であり技術、自分に出来ることをやりきっていると思います。 まりん より: 2013/10/14 13:49 自分に息づいてるものを、カラッポになるまで表出すること、それが愛って、すごいです。蓄電池のように自分を充電したり、別な自分を目指す必要なんてまったくなくて、今の自分がどんなときも、どこにいても、まるごと肯定されてると思ったからです。カラッポになるまで表出するのは、自分なんだって思います。自分そのものでいいんだって思います。
もりけんさんの表現は、蓄積を全く感じません。それどころかまだ出すのかとおしみなく生命を相手を選ばず差別もしなくて、いつでもどこでも出されていると感じます。もりけんさんの本や独り言やメインを読みその問題提起を思考しているとき本当に生きていると感じます。日常に起こる現場の様々な出来事に対して今までは逃げたいとか逃避してきたと感じます。もりけんさんの表現を情報を受けて、自ずと物事に対して気持ちが変化したような気がしています。自分の意識でどうにかしようとか自分の力で人生を切り開こうという気持ちを諦めようと思うようになってきたと感じます。生きることが苦労とか苦痛ではなくなる感じがします。もりけんさんからの出し切っている姿や情報は、この世で生きるということ流れにのる勇気が出て生きることに喜びと勇気が出てきます
ゼロ次元を思いました。もちろんゼロ次元がどんな次元なのか、自分にはぜんぜん分かっていないです。でもこれまでの蓄電池のように考えられていた愛は、次元を上げれば上げるほど愛が豊かになると考えらていたのではないかと感じました。先日、書いてくださったスピ系の記事にあった愛などは、まさにそんな印象を受けました。でも、教科書の愛は全く逆なのだと思います。愛すれば愛するほど、自分はゼロに近づくのだと思いました。それがどんな状態なのか実感としては分からないです。まだまだ自分は空っぽ感がないので、ぜんぜん出ていないと思います。でもこれから出せばいいのだと思いました。自分がカラッポというのが、教科書に書かれている愛の一つのバロメーターでもあるのだと思いました。
思い切り出せば、カラッポになるんだと思います。それでいいんだと思います。愛は満たすものではない・・というのは、そう言うことなんだと思います。与えるものだから、たまるはずないんだと思います。愛は蓄電池のよう・・って、今まではほんとにそう思ってきたと思います。愛に満ち溢れてることがいいことみたいに。。満ち溢れるほど持ってるのは全然与えたりないのだと思います。与える人はカラッポになるんだと思います。カラッポになるから、相手の中に息づいたものをそのまま受け取れるのかもと思います。常にカラッポだから、今、この瞬間に生まれ、息づいてるものを相手に与えられるのかもと思います。考えてると、愛ってとても躍動的だと思いました。
出し切る・・・のですね。残っているのならまだ全部出ていない、というくらい出し切るのだと思います。すごいです。「愛は蓄電池」の発想とは、まるで逆です。蓄電池は、自分にためて、その余力を相手に注いだと思います。余力を出すのなら、自分は減らないです。出し切るは、自分のを出してしまっています。それで・・空っぽになってしまっています。全然、「余力」でないです。ですが、とにかく出し切るのだと思います。
お話を聞いていて、先日参加させていただいた「トラさんセミナー」を思い出しました。あのセミナーも、講師の方々も、もりけんさんも、出し切っていたのではないかと思います。さらに、受講生だってそうです。みんな三人の姿を見て、こちらも喰らいついていくのに必死で、出し切っていたのではないかと思います。誰にも余力もないほど、みんなギリギリまで出し切っていたのではないかと思います。
自分を表出するのが愛だから、自分をカラッポにすることが愛・・教科書に書かれていることも、もりけんさんの文もすごくわかります。自分の中に生まれたものをその瞬間、バッと出してしまったらホントにからカラッポだと思います。すごくカッコいいです。自分の中に生まれたものだって何が出てくるかわからないし、その瞬間しかないもので、出さないと愛ではないのだと思います。
表出すことは
空っぽになることまでだとは
考えていませんでした。
今までは多分
全部出しきっていないのだと
思います。
これからは自分を出し切ることを
意識していきたいと思います。
自分をカラッポにしている愛が本当に今まで思っていた愛と逆だと思いました。自分の中のものを蓄えていないと与えられないとずっと思っていましたが、カラッポにするのが愛なんだと思います。不思議です。カラッポにすれば、自分も無くなると思ってしまっていました。でも、もりけんさんを見ているとカラッポだから純粋なものだけが輝いている気がします。愛は表現であり技術、自分に出来ることをやりきっていると思います。
自分に息づいてるものを、カラッポになるまで表出すること、それが愛って、すごいです。蓄電池のように自分を充電したり、別な自分を目指す必要なんてまったくなくて、今の自分がどんなときも、どこにいても、まるごと肯定されてると思ったからです。カラッポになるまで表出するのは、自分なんだって思います。自分そのものでいいんだって思います。