主人公の智也がバイト先の新撰組資料館で小学生たちの質問を受けるシーンは、脚本では次のような注意書きがあります。
『森田注:小学生とのやりとりの時、質問者である小学生は背後から撮影し、正面に質問をされる側の智也をとらえる。智也が答え始めるとカメラは智也の背後から、聞いている小学生をとらえる。そのために智也はしゃがみ込み、質問者である小学生に同じ高さで向き合う。なぜかというとこの映画は外側からの信号の受け身がテーマのひとつだからです。質問者にカメラを合わせると、主体的に生きようとする映画になってしまいます。但し、喋り終わる少し前に発言者に振る。そしてその人を撮し続け、相手が喋り終わる頃に相手に振る。2対8の比率で。智也の立ち位置も前屈みになったり、小学生の横から小学生の背中に触れながら顔を横から近づける、とかを混ぜる』
考えてみれば、私たちが日常生きているのもこれに似ています。
大半は外からの信号を受けています。
みんなと話すときも、人の話を聞いているときのほうが長いです。
にも関わらず、一般的に映画は喋る側を撮っています。
見終わった後、自己主張が続いたことに、なんか疲れが残らないでしょうか?
昨夜、ワンネスのシーンをもう一度見ました。
質問をされる智也の顔が映し出され、それが実に優しい顔なのです。
それを見るだけで、癒されます。
私たちは主体的に生きることをヨシとされてきました。
でも、人の話をどういう顔で聞くかということも、とっても重要だと思いました。
「外側の信号を受け取る」というワンネスのテーマの一つが、この注意書きにある撮影方法の背後にあるのだと思いました。「主体的に生きようとする映画になる」、「日常もこれに似ている」、「なんか疲れが残らないでしょうか?」という指摘に目からウロコです。なぜ自分がいままでこういう点を疑問に思わなかったのか、とても不思議です。まるで「主体的に生きるのが良い」という風潮に完全に洗脳されてきたのではないかと思えてしまうほどです。その分だけ外側からの信号を取りこぼしまくってきたのがこれまでの生き方だったのかもしれないと思いました。受け身であることの自然体を思い出したとき、私たちを取り巻く全体が智也の優しい顔のように、優しくなるのではないかと感じました。
「見終わった後、自己主張が続いたことに、なんか疲れが残らないでしょうか?」という、問いかけが、とってもおもしろいです。映画に対して、そのような視点をもって、考えたこともなかったです(笑)ですが、いわれてみれば、自己主張がずっと画面に続いていれば・・・こちらは疲れそうだと思います(笑)
逆に、質問をされる智也の表情は、やさしい顔でした。たしかに・・そうだと思います。智也の表情、やっぱりとてもいいです。癒されると思います。人の話をどういう顔で聞くかというもの、とても重要なんだなと思いました。