映画「和」 サル以下(爆) 2014/01/30 6:54 AM フィクションは、想像上のこと・・という意味だと思います。 想像したことを現実化させるのが意識だということになります。 多くの人は、そうやって生きていると思います。 「思いは実現する」という本もたくさん出ています。 ということは、映画におけるフィクションというのを、みんな、やっているわけです。 けれど一方では、運命は決まっているという説があります。 えーーー そうだとすれば、サル以下じゃん(爆) シェアしましょう ! Tweet « 映画「和」 笑いとフィクション 映画「和」 宇宙人とうまくやっていけない » コメント みっく より: 2014/01/30 12:39 想像したことを現実化しようとするフィクションをずっと人間はやってきたと思います。でも運命が決まっているとすれば、ほんとにサル以下です。もし想像通りになったことがあったとしても、それを想像することすら決まってたかもしれないです。思いが実現したつもりになってただけみたいに思います。運命は決まっているという説は、想像しまくって前に進もうとする人間をハタと立ち止まらせてくれるみたいに思います。思い通りになってほしいという気持ちが強い人には信じがたい説でもあると思います。運命が決まっていたら、想像して現実化しよう・・とガンバル必要がなくなり、意識の出番が減るように思いました。 なんしぃ より: 2014/01/30 13:57 今が幸せだと感じているときは、思いを実現したいとか考えないように思いました。運命が決まっているということのマイナス面がだんだん感じられなくなってきました。運命というのは神様が私という個にプレゼントをくれたように感じてきて、そのプレゼントを見てみたいと思います。そのプレゼントをいただき私は存在できていると思います。だからどんな人生でもその神様が決めた人生を無心で無我夢中で生きることは、神様に対してゴーサインを出しているような気がして、神の作った運命をそのまま命懸けで生きるということが神との通信のような感じがしてきました どせい より: 2014/01/30 19:58 これまで、想像したことを現実化させたい、というのは、多かれ少なかれ、もうほとんどの人がやってきたのではないかと思います。誰もが、意識で「理想」のようなものを持ってきたと思います。そういう意味では、人間は、ず~~~っと、フィクションの世界を生きようとしてきたのかもしれないです。実際は、ドキュメンタリーであったにも関わらず・・・。 だから「運命が決まっている」ということを認めるのは、自分が生きてきた世界が、実は虚構のフィクションで、実際はドキュメンタリーであったというくらい、インパクトのある出来事なのではないかと思います。 まりん より: 2014/01/30 20:52 想像したことだってゼロから作りだしたものではないです。この世界をもとに生まれた想像しかないんじゃないかと思います。それが無意識やドキュメンタリーの世界なのかもしれないと思います。「事実は小説よりも奇なり」と言うように、フィクションがドキュメンタリーを超えることはないと思います。神のシナリオを生きてることには気づかずに、自分のシナリオを生きてるように錯覚してるのが私なんだなって思います。チマチマした自分のシナリオは想像力をフルに使ってもたかが知れてて、神のシナリオには到底及ばないです。そんな神のシナリオを生きられるって、すごいことだなって思います。 こはな より: 2014/01/31 00:29 運命が決まっているとしたら、想像したことを現実化することも決まっているのかもしれないと思いました。サルは無意識と直結しているのかもしれなくて、サルの方がすごいのかもしれないと思いました。
想像したことを現実化しようとするフィクションをずっと人間はやってきたと思います。でも運命が決まっているとすれば、ほんとにサル以下です。もし想像通りになったことがあったとしても、それを想像することすら決まってたかもしれないです。思いが実現したつもりになってただけみたいに思います。運命は決まっているという説は、想像しまくって前に進もうとする人間をハタと立ち止まらせてくれるみたいに思います。思い通りになってほしいという気持ちが強い人には信じがたい説でもあると思います。運命が決まっていたら、想像して現実化しよう・・とガンバル必要がなくなり、意識の出番が減るように思いました。
今が幸せだと感じているときは、思いを実現したいとか考えないように思いました。運命が決まっているということのマイナス面がだんだん感じられなくなってきました。運命というのは神様が私という個にプレゼントをくれたように感じてきて、そのプレゼントを見てみたいと思います。そのプレゼントをいただき私は存在できていると思います。だからどんな人生でもその神様が決めた人生を無心で無我夢中で生きることは、神様に対してゴーサインを出しているような気がして、神の作った運命をそのまま命懸けで生きるということが神との通信のような感じがしてきました
これまで、想像したことを現実化させたい、というのは、多かれ少なかれ、もうほとんどの人がやってきたのではないかと思います。誰もが、意識で「理想」のようなものを持ってきたと思います。そういう意味では、人間は、ず~~~っと、フィクションの世界を生きようとしてきたのかもしれないです。実際は、ドキュメンタリーであったにも関わらず・・・。
だから「運命が決まっている」ということを認めるのは、自分が生きてきた世界が、実は虚構のフィクションで、実際はドキュメンタリーであったというくらい、インパクトのある出来事なのではないかと思います。
想像したことだってゼロから作りだしたものではないです。この世界をもとに生まれた想像しかないんじゃないかと思います。それが無意識やドキュメンタリーの世界なのかもしれないと思います。「事実は小説よりも奇なり」と言うように、フィクションがドキュメンタリーを超えることはないと思います。神のシナリオを生きてることには気づかずに、自分のシナリオを生きてるように錯覚してるのが私なんだなって思います。チマチマした自分のシナリオは想像力をフルに使ってもたかが知れてて、神のシナリオには到底及ばないです。そんな神のシナリオを生きられるって、すごいことだなって思います。
運命が決まっているとしたら、想像したことを現実化することも決まっているのかもしれないと思いました。サルは無意識と直結しているのかもしれなくて、サルの方がすごいのかもしれないと思いました。