映画「和」 笑いとフィクション

2014/01/29 8:08 AM

  
 目の前で面白いことがあり、あなたは笑ったとします。
 でも誰かがあなたに問いました。
「なぜ笑ったの?」
「えーと(汗)」
 このあとに続くフレーズは、言い訳です(笑)。
 目の前で起こったことはドキュメンタリーであり、無意識に反応した笑いもドキュメンタリーだと思います。
 しかし意識が介入するとフィクションになりそうです。


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コメント

  1. こはな より:

    目の前で起こったことは、何が出てくるかわからないです。笑ったとしても、それを見なくては笑わなかったと思います。無意識同士のやり取りが常に行われていて、意識は笑ってしまった原因を、ほんとはわからないのだと思いました。

  2. なんしぃ より:

    意識というのは言い訳しかしていなくて、もしも無意識からの信号が来ても意識を高めていると言い訳ばかりしてしまい、即座に反応できないように感じました。ほんとうは毎日はドキュメンタリーの連続であるのに、その流れに乗れていないとしたら、意識で言い訳をしてしまっているからかもしれないと感じました。目の前に起こっていることをドキュメンタリーにするか、フィクションにしてしまうかは意識が介入するかしないかにかかっているように感じました。意識というのは高めていると、すぐ介入してしまうような感じがしました

  3. どせい より:

    「笑う」という一つの現象でありながら、ドキュメンタリーとフィクションが、同時に存在していて、二重構造になっているのがとても不思議です。
    しかも、「意識」の側から見ると、「フィクション」のようにしか見えないようになっていると思います。なぜ笑ったのか・・・意識は、フィクションしか認識できないです。だから、人間は、「意識」から人生を見てしまうと、あたかも自分で決めているように見えたり、自分の人生が自由なようにしか見えないのではないかと思います。

  4. まりん より:

    周りで起こってることはドキュメンタリーで、笑いもドキュメンタリーって、その通りです。ドキュメンタリーの世界で、ドキュメンタリの笑いが生まれてるんだって思います。そこに意識の私が入ると、つじつまや理由付けをしたくなるんだと思います。なぜそうしたくなるのか、それは個が中心だと思ってるからだと思いました。原因も結果もすべて個が生み出してると勘違いしてるのかもしれません。すごくえらそうだなって思います。神の世界から笑いが生まれてるし、笑いだけでなくすべてはそこからなのかもしれないと思います。そのことにずっと気づいてなくて、今もそうかもと思います。

  5. 小町 より:

    自分が笑ったこと、その瞬間にただ反応しているんだと思います。意識してしまうと笑った自分が客観しされてくると思います。理由や言い訳が意識になると必要になっています。ドキュメンタリーとフィクションの切れ目が無いまま、私たちは過ごしている気になりました。無意識を後追いしていることでしか、意識出来ないと思います。ドキュメンタリーとしての無意識を意識が見て考えているんだと思います。笑いは自分では作れないものだと思ってきます。

  6. みっく より:

    笑ってしまうような出来事が目の前で起きて笑ってしまう・・という一連の流れは、ドキュメンタリーで、無意識の範囲で起きてる現象なんだと思いました。確かに笑った理由を言おうとしても、えーと・・となりそうです。後から言い訳をつけることができてもその時にはもう意識バリバリで、フィクションになってしまってると思います。なんだか、笑う瞬間ってとっても素敵な時間だったんだなと思いました。

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