福沢諭吉がFREEDOMを自由と訳したことは、昨日書きました。
自由とは、自分に理由があることだそうです。
それまでは生まれた環境に理由がありました。身分制度が決まっていたからです。
しかし今は違います。農民に生まれても商人にもなれるし、政治家にもなれます。
西洋人が書いた「原因と結果の法則」は大ヒットしましたが、やはり原因は自分です。
世界は自分が創り出しているとまでいう人も出てきました。
自分の意識が世界をコントロールできるという意味でもあります。
しかし「和」の公式ホームページにはこう書いてあります。
「意識は無意識の支配下なのか?」
もしそうだとすれば話は違ってきます。
意識が主体になれません。
これは脳科学者の間でも実験的に証明されつつあります。
「自由は幻想にすぎない」という脳科学者もいます。
しかし日本人は元々そういう思想を持っていたはずです。
日本人は、自分が…自分が…と主体が前面に出るのは好きではありませんでした。
あいまいな表現を使うのも日本人の特徴でした。
西洋の本には「自分の好きなことをしなさい」と書いてあります。自由が前面に出た思想です。
でもそういう生き方にどこか付いていけないのも日本人でした。
自由が輸入される前、日本では環境が主体だったのだと思いました。生まれながらの環境に、ご先祖さま達は受け身に暮らしてきたのだと思います。最新の脳科学で解明されつつあることが、日本では元々、そういう思想が在ったという発見もすごいです。日本人の良さは、人類全体に関係していることかもしれないのだと思いました。
確かに今は士農工商の垣根が無くなって、自分のなりたい職業に付くのも可能だと思います。末は博士か大臣かや故郷に錦を飾るもこの「自由」からだと思いました。環境に従ってきた時は自分を周りに委ねていれば、自ずとやるべきことが見えてきたと思います。この「自由」は先に自分がなりたいものを探さないといけません。自分の才能が無かった場合とか、なりたいものが見つからない場合とかで、自分の人生の選択を迫られてしまうことに気が重かったこともあります。早いうちにその子の向いているものを見つけてくれる方が自分で選ぶよりいいような気がするなと思ってきました。そういう意味では自分が主体で決めるはとても悩む事柄だと思います。好きなこともその時でコロコロと変わるし、限定させるのは苦手なんだと思います。
「自由」が輸入される前の日本人はまるで「自由は幻想にすぎない」ということがわかっているかのような生き方をしていたんだと思いました。「自分の好きなことをする」ことに、何の疑問も持たない現代人とはまったく違った発想で生きていたんだと思います。自分の存在が環境由来であると認識していた昔の日本人の方がより無意識と繋がって生きていたと言えるのかもしれないと思いました。「意識は無意識の支配下である」ということを地で行っていたのが「自由」が輸入される前の日本人だったのかもしれないと思いました。
自分の好きなことをしなさいと言われてもその好きなことを自分が一番知らないと感じています。自分に理由があると思われること、自由なことをしなさいと言われている感じがして、一生かかっても見いだせない感じがしました。そして、好きなことにとらわれている間は、何も動けないと感じました。いちいちこれは好きなことなのかきらいなことなのかという自分だけの狭い価値観で動くということは、とても窮屈だと感じました
自由は輸入される前の日本人は、自分では気づかないまま、お陰様を生きていたのだと思います。周りがあってはじめて自分が生きていることを感じていたのだと思います。けれど、西洋から輸入された自由の影響を受けて、知らず知らずそれまでの日本人の性質を否定してきたのかもしれません。「和」や最新の脳科学の世界から、日本人が自分たちのそんな性質に初めて気づくことができて美徳としていうことに気づくことができるのかもしれないと思いました。