映画「ワンネス」「和」 人生で主体的なものなど何一つ思い浮かびません

2014/05/28 6:33 AM

  
 きょうも個人的なことを書けば、自由があろうとなかろうと、どっちでもいいです。
 真理を知りたいだけです。
 っていうか、真理を知りたいという問いも高校生のときに持たされたので、受け身です。
 私の人生で主体的なものなど何一つ思い浮かびません。
 なので自由が無いとガッカリする人の気持ちが、いまいちわからないです。


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コメント

  1. 小町 より:

    自由より真理が知りたいをずっと問い続けているのが本当にすごいことだと思いました。問いも持たされたから主体的でないと言い切るのに清々しい思いがしてきます。自分が自主的に問うてきたと思う人がほとんどだからだし、それを続けているもの主体性だというのもほとんどだから、ひとつも無いにもりけんさんの問いが神への問いでブレない理由なんだと思いました。自由より真理、それも選んでいないと思います。自由になると何していいかわからないので、このままでいいと思うのもここのおかげだとこのごろよく思います。また書きたいです。

  2. 和佳 より:

    森田さんは自由がないとがっかするという気持ちはいまいちわからないなと感じてるんだなと思いました。人生に主体的なものあったかひとつも思い浮かばないのだなとおもいました。問いは持たされたというところがあるんだなっておもいました

  3. こはな より:

    真理が知りたいのだと思います。高校生のときに、問いを持たされてから、ずっとそうなのだと思います。

  4. 小町 より:

    人生はある日突然目の前にあったと思います。最初は真っ白に見えるけど次々とこれもあれもになってきたと思います。その流れの中にいただけだとやっと思えるようになってきました。自分が何かしたわけじゃないしできたわけじゃないと思います。自由は何でも出来そうで何も出来ないモノの象徴かもしれません。絵を描くのさえ課題が無いと描けないのが現状だと思います。その受け身を徹底してやられているのがもりけんさんです。自分で成し遂げたものはないと言い切るのは受け身を自覚しているからだと思います。そんな自覚のある人はもりけんさんの他に知らないと思いました。

  5. どせい より:

    自由があろうとなかろうと、どっちでもいい、というもりけんさんは・・・デカイです(笑)チマチマしていないです。運命が決まっていて、自由がないというと・・多くの人は、焦るし、右往左往するし、がっかりするのかもしれないです。

    自分の人生を振り返ってみて、主体的にしてきたことが、見当たらない・・・というお気持ちは、とても大きく、本当にすごい感覚だと思います。傍から見ていれば、中国への不思議調査をはじめ、モンロー研究所や道教修行、小説をはじめ本も何冊も出版されていて、ここ数年では映画も2本撮られています。・・こんなに結果を残されながらも、主体的にやったとは思えなくて、ずっと受身的であっただけなのだと思います。そういう感覚を、根本として持っているのだと思います・・。

  6. まりん より:

    高校生のときに出会った問いも、外側からきたもので、自分の中から主体的に生まれたものではないんだと思いました。問いが生まれるとき、そんなふうに考えたことすらなかったです。内面だけしか見えてないと、まるで自分が問いをもったかのように思いこんできました。今こうして考えられるのもメインからの問いかけがあるからです。外側からきたものに受け身というのを考えなかっただけで、生まれてきたこと自体受け身でしかないし、そこから自分で主体的に生み出したり考えだしたものがあるかと考えたら、何も浮かばないです。すべて外側が先にあって、それに反応してるだけかもしれないと思います。主体的や自由を知ったのも周りからです。自分の中からそのことを発見したわけではないです。そう考えると、自分の中の知識は外から知ったことしかないんだと思います。

    真理を知りたいという問いをもつ人たちは多いかもしれないけれど、自分でその問いをもったと思ってる人がほとんどだと思います。自分のイメージしてた真理とはまるで違った情報に出会ったときに否定してしまうのも、自分が優先だからです。はじめにもった問いすら受け身だというのは、その後どんなデータがきても受け身しかないのかもしれません。そこには自分はないから、自由があろうとなかろうとどっちでもいいのかもしれないと思いました。もりけんさんは、周りからもたされた問いに受け身で自分の内面を問題にしてないです。問いの生まれる最初から、受け身しかなくて、自由とか主体性とかいっさいない中で、強烈に問い続けてると思いました。

  7. まるこ より:

    自分の人生でも主体的なものは一つも思い浮かばないです。でもそう書ける視点を持ったのも、森田さんに出会ってからです。それまでは人生は主体的なものだと思って生きてきました。受け身な視点も問いも、全部向こうからやってきて、自分で主体的に得たものは何もないと感じます。気がついたら存在していて「私」という意識も持っていました。これも主体的に得たものではなく、持たされたものだと思います。

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