今、脚本を書いている段階ですが、この映画にはギバーとテイカーという単語が出てきます。
ギバーは与える人です。
テイカーは取っていく人です。
これに関して、私の書いた「スープ①」のあとがきをここに紹介します(少し短くしますが)
前世記憶調査から得た僕の気づきを書きたいと思います。
あの世には裁きもない代わりに評価もありませんでした。そうなると自分が自分を認めるしかありません。でもそれは効果絶大だということを書きたいのです。
僕たちは輪廻の過程でどんな自分になるか分かりません。だとすれば、今の自分は今しか経験できないはずです。今の自分を十分に味わい尽くすことが大切だと思うのです。
自分を肯定すると、視点が内側を向かなくなると思います。こうすべきだったとかああすればよかったとかの後悔も減ると思います。
自分で是非実験して欲しいのですが、視点が内側を向いてしまう時というのは、「与える人」ではなくなってしまうのです。
ここでいう「与える人」というのは、自分の感じていることや考えを外に表出する人です。内側を向く人は「奪う人」とも言えそうです。なぜならその瞬間は自分のことしか考えていないからです。
でも人は「与える人」と「奪う人」にはっきり分類されるわけではなく、1人の人間が二つの状態を行ったり来たりするのだと思います。
「与える人」は目の前に相手がいればそちらに集中します。自分を肯定しているので、自分自身を相手に与えることに躊躇しません。
これは好奇心というものを別な形で表現したものだと思います。好奇心が発動する時、自分の全感覚は対象に向けられているはずだからです。
生まれ変わりの村の人の98%は今が幸せだと答えました。おそらく「与える人」なのです。だからこそ自殺した人でさえも僕の前でインタビューに応じてくれたような気がするのです。
自分は宇宙でたった1人のかけがえのない存在だと知ることが大事だと思います。そして自分を肯定した瞬間、その人は「与える人」になるのです。
あなたはあなたのままでよいと思います。自分を変えて他の人になる必要はありません。あなたの欠点だって、宇宙のシステムがあなたにプレゼントした個性だと思うからです。それを肯定したほうがよいと思うのです。
自分を肯定したとき、あなたの視点は外に向き、今まで見えなかったものも目に入ってくるようになると思います。
これが生まれ変わりの調査で得た僕の感想です。
あとがきは以上です。
これはまさに「ギバー」と「テイカー」について書いたものです。
私は学生時代、エーリッヒ・フロムという心理学者の本が大好きでした。
『自由からの逃走』が代表作です。
人は自由を求めているくせに、自由になると、そこから逃走するというのです。
まさに、そうだと思いました。
そしてフロムが書いた本に『愛するということ』があります。
その本の中で言っている、「愛する」はまさに「ギバー」のことだったのです。
「スープ①」のあとがき、一応読んだはずですが、新鮮に感じました。(笑)あの世に、評価や裁きはなくても、この世には評価も裁きもあると思いました。それは、あの世の裁判官ではなく、この世で人が人を裁くと思います。それは日常的にあることだと思います。でも、その価値観は人それぞれだと思います。だから、自分を肯定できるのは自分しかいないのではないかと思ったりもします。自分が自分の1番の味方でいたい…そう思います。
ギバーというのは孤独に耐えることができる人の感じがしました。自由を求めてそこから逃げる人ではなくて自由へと向かうことに躊躇しない孤独になることに対して逃げない人に感じました。ギバーは神とともに生きる人、神の作ったルールの中で受け身であり続ける人を感じました。神が人間に生きる勇気や情報を与えて意識がある生命体をギバーにしてくれる感じがしました。
フロムの本はどちらも、見せかけの自由、見せかけの愛を斬ってると思いました。
自由を求めようとすると、人はテイカーになってしまうみたいに思いました。そしてほんとに自由になるとそこから逃げ出してしまう・・自由は自分を満足させるものではなかったんだと思います。そうなると、自由というのは、求めている間も、自由を得たときも、なんだかずっとテイカーのままみたいに思います。満足、肯定していないからです。
愛するというのは、まさにギバーのことなんだと思います。自分を肯定していないと愛することはできないんだと思います。自分を否定したまま愛しても、それは相手から奪うことになりそうだと思います。
自分を肯定したとき、無意識とつながって無意識からの通信が多くなるのかもしれないと思います。
これは昨日の記事にもあったと思いますが、無意識とつながることで運があがるということなのだと思いました。
もりけんさんが学生時代に出会った大好きなフロムの本が、もっと大人になって出会ったことと通じていたんだ・・と思いました。そのことも素敵だと思いました。
内を向いていた時、私は自分がいいと思うことを伝えてて・・相手を変えようとしていた・・ティッカーだったんだ、と思いました。自分を肯定して、マイナスも、いいよ、と。相手の言葉に耳を傾けるようになった、と思いました。
「愛する」・・ギバーになるは、つながることなんだ、と思いました。
すごいお話なので…うぉーとかうわーってなりながら読んでます。「生まれ変わりの村の方たちはギバー的なとこがあるんだなって思いました。そしてこの「スープ①」はギバーの方たちの証言なんだなって思いました。そして…今、書いてる映画の脚本には「ギバー」と「テイカー」が出てくるんだと思います。おおおおお…ってなります。この映画は生まれ変わりを経た人がでてくるっておもったし…なんかもう やっぱ うわー うぉ〜!です
内向きの自分、外向きの自分。その両方を行ったりきたり。本当にそのとおりだと思いました。内か外か。どっちを向くか。二者択一の視点の違いは物凄く大きいと思います。どうすればより多く外を向いていられるのか。そのキーはやはり「つながり」なのだと思いました。生まれ変わりの村の皆さんは、前世記憶を持って生まれ変わることで、全体との強いつながりを体得されたのだと思います。そして映画「スープ」と映画「ワンネス」で、今度は私たちが全体とのつながりを思い出す番なのだと思いました。全体とのつながりを思い出し、自分を肯定して、愛する「ギバー」となる番なのだと思いました。とても温かくて深いメッセージだと思いました。
「スープ①」の本のあとがきをもう一度読み返しました。本当にギバーとテイカーそのものだなって思います。とても温かい気持ちになる文章です。この後書きそのものもギバーだからだなぁって思います。今書かれてる「ワンネス」の脚本にもギバーとテイカーが出てきて、それは「スープ」とも「生まれ変わりの村」ともつながってるんだって思います。さらには学生時代に読まれた大好きなエーリッヒフロムの本に出てくる「愛する」も「ギバー」のことで、つながってるんだなって思います。ギバーとテイカーについて知れば知るほど、とても深い意味に気づかされます。
自由になると逃走するというのが、面白いです。そして不思議です。何もかも自由だと、何もしたくなるような気がします。自由というのは、相手に何もしなければ自分にも何もしたくなくなるのかなと思いました。人は、何かを与えたがっているのかなと思いました。「愛する」というのが、ギバーというのは、とても納得するというか、そうだなって思いました。
自分にこだわってしまうとテイカーになってしまうんだと思いました。そうしているうちは外に意識を向けられないというのはそうなんだと思いました。だって、自分のことを考えてしまっているから。どんな自分になるか分からないというのは、これまで、自分の生き方次第だと思っていました。でも、与えられているんだって、生まれ変わりの人々のインタビューから知ることは大きいなと思います。自分を他者のように肯定するような感じを持ちました。