この映画は4月8日にクランクインすることになりました。
今、脚本の最後の仕上げをしているところです。
この映画の一番大きなテーマは運命変更です。
私は、運命が決まっているとは思ってもいませんでした。
人生は白紙だと思っていました。
ところが六爻占術の師匠であるトラさんとチベットに行ったとき、運命があることを思い知らされました。
呆然としている私にトラさんは言いました。
「でも森田さん、変更もできるのです」
映画「ワンネス」は、実は運命変更の映画なのです。
そのキーは、「繋がること」・・なのです。
人生は白紙だと思っているとき、実は、「繋がり」は少ないと思います。
ところが運命の存在を肯定してくると、「繋がり」を意識するようになります。
「繋がり」を意識できるようになると、ヒントが沢山降りてくるのです。
まるで世界全体が生きているようです。
これが表現できるかが、映画「ワンネス」の成功の鍵だと思っています。
原作としての「神のなせる技なり」を書いたときは、理屈もアリでした。文章なら、難しければちょっと休んでから、再度読むことも可能です。でも映画はそうはいきません。どんどん進みます。だとすれば感情に訴えかけなければなりません。
今の脚本はそれが出来ているんだろうか?
脚本は二次元です。
映画は二次元のスクリーンと経過時間で、三次元です。
つまり次元がひとつ上がります。
次元がひとつ上がるだけで、想像するのがとても難しいです。
ここ一ヶ月ほどの経験を言えば、たまに「そういう状態のとき」が訪れます。
自分の頭がスクリーンと「繋がったとき」と言えるかも知れません。
この映画の1番大きなテーマは運命変更で、そのキーは「繋がること」なのだと思います。そして、映画は感情に訴えかけなければいけないと思われているのだと思います。そうすることで、心に残るのかなと思います。今の脚本は、それができているのかということで、最終調整に入られているのだと思いました。次元の話はいつも難しく感じますイメージが難しいからです。でも、それが、映像で見れるとすれば、文字で読むよりわかりやすそうと思います。
映画「ワンネス」のテーマである運命変更のキーは「繋がること」。それを脚本で描くのは、ものすごく難しくてエネルギーがいるんだって思います。自力ではなく、スクリーンの場が降りてくるような状態、ノッテル状態になれるかどうかがキーなんですね。本なら、わからないとき、気づかなかったときに、もう一度前の場面に戻ったりできるけれど、映画はそうじゃないです。時間経過が加わる3次元の世界では後戻りはできないのだなと思います。後戻りできない世界で、私たち観客は常に周りのサインに気づけるかどうか、問われ続けてるのかもしれません。見る側も、運命変更のキーに気づけるか、とても難しいです。でも脚本を書く側にとっても同じかもしれないんだって思います。「繋がった」状態がキーなのだなと思います。そこでしか脚本は書けないとしたら、神も同じかもしれないって思いました。
「神のなせる技なり」を読んだ時、感情移入しました。泣いたり、笑ったり。だけど、智也と容子・・原作者のもりけんさんが描く世界を、もりけんさんの中にいる、智也と容子に会えることがめちゃくちゃ嬉しいです。本のときは、私の中の何かと繋がって多分涙が溢れてきたりしているんじゃないかと思います。私にも思い当たるふしがあることで、感じているのかもしれないと思います。フシケンのHPで、独り言を読んでいる時に新しいシーンが生まれたり、シーンの話を聞いているとき、何か繋がっていると思ったりします。そうゆう時、すごく幸せな気持ちになるのです。脚本のお話を話していることを聞いたり、読んだりする時、感じるので・・繋がっているから、だから伝わってきていると思います。
本は途中で止まって考えたり、一つの文章を味わったりする時間を取ることができると思いました。でも映画はどんどん進みます。考えてる時間、理屈を理解してもらうような時間はないんだと思いました。
一つ上の次元を想像するのは難しく、それができる時というのは、スクリーンともりけんさんがつながった時なのだと思います。
運命変更のキーである、「繋がる」ということが、作成中から行われてるんだと思いました。
脳というのは個の記憶の倉庫のようなイメージがありましたが、ギリシア神話の無意識のお話や前意識という中間地帯のお話から脳が私以外の外側の何かを受け取る受信機のような感じもしてきました。次元を越えて繋がることができるのも脳が外側と共振しているか相似形になっているかのようであり、現在に含まれる未来情報を受信できるようになっているような感じを読んで思いました。脳はコンピュータのようなイメージがありますが、あの世に行っても思考してスープを回避したり前世だけでなく前々世まで思い出したりする証言から、情報次元やゼロ次元というものに繋がることができるのはアナログでは脳であり、幽霊は脳がないから脳を通過しなくてもダイレクトに情報をコピーしている感じを思いました。情報によって私というものが生かされている感じがしました。そして繋がりを考えると繋がった全体がひとつの生命体のようにも感じてきます。
映画は4月8日クランクインで、もう本当にまもなくです。今は、脚本について、最後の仕上げをされているところで、映画の一番大きなテーマは「運命変更」なのだと思います。
運命変更のキーは、「繋がること」なのですね。人生を白紙だと思っているときは、繋がりは少なないのだと思います。「運命」というのを肯定することは、己が小さな存在であることを認めることなのかもしれませんが、そのとき回りも肯定できるし、繋がることもできるのかもしれないな・・・と思います。
そういう部分を表現できるかが、この映画成功のカギなのだと思います。
映画は、二次元のスクリーンに映していますが、時間経過があって、三次元になるというのは、すごい指摘です。まったく、そうだと思います。二次元の平面の世界であっても、時間次元が加わることで、次元が一つあがるのだと思います。
森田さんは、いま、脚本を書かれていて、次元がひとつ上がると、想像するのがとても難しいというのを実感として感じているのだなと思います。
本を読んでいるときは、勝手に想像して読むことが出来ます。もしかしたら作者の意図しないところで泣いたり笑ったりしているかもしれないです。映像はそういう勝手な想像じゃなくて、映像として映っていて、それを見ながらどれだけその世界に入り込めるか・・・ということなんだと思います。それを想像するのがすごく難しいんだと思いますが、たまに「そういう状態」に繋がれるときがあるんだと思いました。そうしたい・・と思った時じゃなくて、急に繋がるのかなと思いました。
運命を肯定できると繋がりも出来てくる、そんな風に感じてくると思います。自由で白紙だと思っている時は自分で何もかも計画していないと出来ないと思ってきたと思います。ものすごく重圧を感じました。計画通りに行く執念が足らない気がいつもしていたと思います。白紙だと思っていたころより、今はずっと楽しいと思います。自分で何もかもと思わなくてもいいからだと思います。運命変更は「ワンネス」のテーマだと思います。人は自分ひとりでは本当に生きていけない生き物だと思います。スクリーンと繋がるなんて、素敵な映画になると思います(笑)
映画や脚本を次元で考えたことがなかったので、不思議な響きだなと思いました。次元というと理系的なとても難しいイメージがありますが、次元を意識すると、そばにあるものなんだなと思いました。脚本になったりスクリーンに繋がったりして、なんだか二次元と三次元を行ったり来たりしているようだなと思いました。
原作を書いた時とはちょっとなにか違うんですね。
脚本は文字で二次元で。映画は二次元のスクリーンと時間経過と!めちゃ想像が難しいかもです。おーでも森田さんはたまにそこが…「そういう状態のとき」に入るんですね…なんか凄いです。スクリーンと「繋がったとき」!前述で…運命の存在を肯定すると「繋がる」というお話がでていました・すると…ヒントがおりて世界が生き生きとする…なんだかとても不思議な試みでの映画作成をされてるのだなとおもいました。運命を肯定するのは…脚本の肯定かもで もっといったら…脚本書いたその神っていうかもで……繋がりがみえてくる!…おーーーー?!ってなりながら拝見してます