中学から高校にかけて、元旦になると毎年同じ目標を持つようになりました。
「今年こそは正直に生きよう」
なぜかと言うと、自分が「いいかっこ師」・「きれいごとを言う奴」だったからです。
でも高校紛争が起こり、僕は思いました。
「他の生徒のほうが僕よりも、きれいごとを言う奴じゃないか」
(笑)
卒業式ではたったひとり、僕だけが非改革の意見を発表しました。
「社会を変えないでどうする?」
という罵声が飛びました。
高校生活を通じて僕は、「自分の無意識に従う自分に戻ろう」と思うようになっていたのです。
自分がいいカッコしているやきれい事を言っているし、人にそれを当然のように言っても来たと思います。でもそのどれも自分が考えていないものばかりで周りに影響を受けていると思いました。社会を変えたいも改革派って、カッコいいです。帰るからにはもっとよく考えないといけないのに、結局考えなんてないその場限りだと思いました。もりけんさんがひとりで非改革派の意見を言うなんて、すごいことだと思いました。もりけんさんは「正直に生きよう」を目標にしていたけれど、無意識に従うことは目標では無いんだと思います。自分の嘘やきれい事を気がつけていたと思います。全然成長しない自分を肯定していることなんだと思います。
自分ではなく、周りの価値観に合わせて評価されたい、好かれたいと思ってきたんだなって思います。自分の無意識に従うのは、今の自分のままでいいって言われてるみたいです。高校のときに「自分の無意識に従う自分に戻ろう」と思ったもりけんさんは、めちゃくちゃイキイキしてます。「その時、その時を生きる」というもりけんさんの言葉が浮かびます。目標や成長のない無意識につながってる感じがするからです。そんなもりけんさんの問いに、ドキドキしたり、グッときたり、ガツンときたり、グイグイ引き込まれるのも、自分の無意識につながってるような感じがします。
中学校から高校にかけて、もりけんさんは、自分が「いいかっこし」「きれいごとをいう」ということを認識されていたのだと思います。うまくいかなかったこと、あるいは、できなかったこと、状況が違ってきたこと・・そういうのを整合性を取ろうとすると、自分にとって都合の良い嘘にならざるを得ないのかもしれないです。意識で言ったことを、さらに意識で整合性を取ろうとすると・・・結局、「いいかっこし」になってしまうのかもしれないと思います。
高校時代の学生紛争では、まわりの学生たちは、社会を変えようとしていて、それを見た森田君は、「他の生徒の方が、僕よりも、きれいごとを言う」と思われたと思います。高校生の森田君は、高校生活を通して「自分の無意識に従う自分に戻ろう」って思うようになっていったのだと思います。
非改革は、きれいごとでは発表できないことだと感じました。無意識に従うということは、きれいごとを好まない人しかできないことかもしれないと感じました。神の性質にはきれいごとを好まないということがあるかもしれないと感じました。生きるということはきれいごとばかりでは生きられないと感じました
無意識に従うは・・前はしていたことで、高校生活を通じて、前の自分に戻ろうって思っていったのだと思いました。正直に生きようと思う前なのかもしれないと思いました。
学生の頃は元旦になると目標を持たされていたと思います。勉強を頑張るとか、何かができるようになるとか意識バリバリの目標だなと思いました。理想の自分像を掲げたりして、すでにイイカッコ師だなと思いました。でもイイカッコ師とかきれいごととか考えたこともなかったです。もりけんさんは中学の時からもう、自分のことをイイカッコ師だとか思われたいたのだと思いました。みんな三次元のことばかりなのに、中学高校でもう大元の自分という感じに気が付かれていたのだなと思いました。