映画「生まれ変わりの村」主題歌 在るがままは宇宙とのつながり 2014/07/27 8:33 AM 在るがままの境地と言いますが、有りのままの境地とは言いません。 境地という言葉が付くのは、在るがままというのは、悟りに近いからでしょう。 でも僕は、普通の悟りとはちょっと違います。 仙人修行をやったとき、「在るがまま」がテーマでもありました。 老子の教えである「無為自然」を体で理解するのです。 瞑想は窓を開け放ち、環境音の中で行われました。 それで僕が今回、歌詞に入れたのが次のフレーズです。 「在るがままの 君と宇宙 つながり始めて 感じあっていく」 シェアしましょう ! Tweet « 映画「生まれ変わりの村」主題歌 あるがままは「在るがまま」です 映画「生まれ変わりの村」主題歌 運命がメロディだとすれば、歌詞は自分たちで選べる人生 » コメント 小町 より: 2014/07/27 09:57 窓を開け放しているととてもたくさんの音が聞こえます。今は蝉の声や車の行き交う音、遠くでホイッスルも聞こえてきます。仙人修行の「無為自然」をこの音の中でやっていたと思います。この環境音を感じているのも「在るがまま」なんだと思います。静かな悟りの世界じゃないです。溶け合うのも違うと思います。躍動を宇宙と繋がることで感じあえるって、素敵です。こうであってほしいなんか無くてもいい、在るだけでいい宇宙を感じると思います。 まりん より: 2014/07/27 15:34 境地がつくかつかないかという視点から悟りに近いという指摘もはじめてです。ありのままに境地がつかないのは、自分だけの閉じた世界で、あるがままは自分の外側に開かれてまわりと共有できるような世界だからかもしれません。境地というのは悟りに近いけれど、もりけんさんの仙人修行での「無為自然」の体験は普通の悟りとは違って、それが瞑想にそのまま現れてるのを感じました。普通は窓をとじ外部の音が入ってこないようにして瞑想するからです。窓を開け放って環境音のなかでの瞑想は、体験したことないです。歌詞には、あるがままという境地を仙人修行で体験されてそこから生まれたフレーズが入ってきたのだと思います。つながりはじめて感じあっていく対象は宇宙全体。。。外へ外へ開かれてるのを感じます。窓を閉じてする瞑想とは違うし、自分中心のありのままとも違って、今まで体験したことのないはじめての感覚だと思います。もりけんさんの体験が息づいてるフレーズ、とてもいいです。 なんしぃ より: 2014/07/27 22:32 無為自然には為さずして為すを感じました。何かの成果を得ようとか、何か自分の徳を積もうとか、何か自分のためにとかではなく、在るがままには、こうなりたいとかこうでありますようになどの、自分のエゴが入っていないと感じました。在るがままになったとき、在るがままの宇宙と繋がる感じがしました。宇宙も在るがままである感じがしました。常に変化して枠にとらわれていなくて、限定できないと思いました。そのような世界観の歌詞が素晴らしいと感じました。歌詞も自分の外側だと思いました こはな より: 2014/07/27 23:55 これは、もりけんさんの瞑想体験で、老子さんの教えの「無為自然」そのものが表現されて、たったひとつのこのフレーズに、もりけんさんの世界か表現されていて、すごいです。
窓を開け放しているととてもたくさんの音が聞こえます。今は蝉の声や車の行き交う音、遠くでホイッスルも聞こえてきます。仙人修行の「無為自然」をこの音の中でやっていたと思います。この環境音を感じているのも「在るがまま」なんだと思います。静かな悟りの世界じゃないです。溶け合うのも違うと思います。躍動を宇宙と繋がることで感じあえるって、素敵です。こうであってほしいなんか無くてもいい、在るだけでいい宇宙を感じると思います。
境地がつくかつかないかという視点から悟りに近いという指摘もはじめてです。ありのままに境地がつかないのは、自分だけの閉じた世界で、あるがままは自分の外側に開かれてまわりと共有できるような世界だからかもしれません。境地というのは悟りに近いけれど、もりけんさんの仙人修行での「無為自然」の体験は普通の悟りとは違って、それが瞑想にそのまま現れてるのを感じました。普通は窓をとじ外部の音が入ってこないようにして瞑想するからです。窓を開け放って環境音のなかでの瞑想は、体験したことないです。歌詞には、あるがままという境地を仙人修行で体験されてそこから生まれたフレーズが入ってきたのだと思います。つながりはじめて感じあっていく対象は宇宙全体。。。外へ外へ開かれてるのを感じます。窓を閉じてする瞑想とは違うし、自分中心のありのままとも違って、今まで体験したことのないはじめての感覚だと思います。もりけんさんの体験が息づいてるフレーズ、とてもいいです。
無為自然には為さずして為すを感じました。何かの成果を得ようとか、何か自分の徳を積もうとか、何か自分のためにとかではなく、在るがままには、こうなりたいとかこうでありますようになどの、自分のエゴが入っていないと感じました。在るがままになったとき、在るがままの宇宙と繋がる感じがしました。宇宙も在るがままである感じがしました。常に変化して枠にとらわれていなくて、限定できないと思いました。そのような世界観の歌詞が素晴らしいと感じました。歌詞も自分の外側だと思いました
これは、もりけんさんの瞑想体験で、老子さんの教えの「無為自然」そのものが表現されて、たったひとつのこのフレーズに、もりけんさんの世界か表現されていて、すごいです。