英語とフランス語の字幕が入りました。
まるで別の映画です。
映画には沢山の日本語があふれていますが、すべて字幕に出すわけにはいきません。
映画として焦点を当てた部分しか出しません。
たとえば「ワンネス」ではオカマと天使が言い合いをするシーンがあります。主人公の背後で激しく言い合いをしますが、カメラは主人公である智也の顔をアップでとらえています。
ここで言い合いを字幕に出せば、そっちのほうが重要になります。
だから字幕に出しません。
こうすることで智也の表情に気持ちが移ります。
母国語の世界では、これを自動的に行っているはずです。
別な言葉でいえば、無意識と意識の境目が自動的にズレるのです。
しかし字幕には無意識の世界はありません。
書いたものはすべて意識の世界です。
この気づきは、けっこう大きいです。
もう少し深く掘り下げる価値がありそうです。
とても深いです。書いてくださったことをちゃんと理解できているか分かりませんが、字幕入りバージョンは監督が無意識となって観客の意識を決定しているということになるのかなと思いました。背景で起こっていることを字幕化するということは、カクテルパーティー効果のように、その情報が無意識のフィルターを通過して意識に上らせるということに当たるのかもしれないと思いました。つまり字幕入りバージョンは字幕を入れる指示をされた森田監督が無意識のフィルターとなられ、字幕のない日本語バージョンは、個々の観客の無意識が自動的に何を意識に上げるかを判断し、尚かつ意識と無意識で処理する情報の比重も自動的に決定しているということなのかなと思いました。字幕というものが私たちの外側の認識方法にこれだけの違いを生んでいるとは驚きです。とてもすごい気づきだと思いました。
字幕というのを深く考えたことがなかったの、お話を読んでとても面白いなと思いました。スクリーンに出ているすべてが字幕になっているわけではなくて、焦点があたったところなんだなと思いました。天使とオカマが言い合いしているところは字幕に出さないことで、智也の表情に気持ちが移るのだと思いました。智也の表情を見ながらも、オカマと天使の声は聞こえているのだなと思いました。他にもいろんな音や絵が飛び交っているなか、智也の表情を見ているのだなと思いました。母国語では、字幕にするような意識にあげることは自動的にしていて、その中でも周りではいろいろな音や声などが聞こえているのだと思いました。無意識と意識の境目がずれというのをまた考えたいと思いました。
母国語ではない外国の映画を見ているとき、字幕を優先して見ていると感じます。字幕が出ている間は、画面のほうを見ていても、字幕優先で意識で理解しようとしているように感じます。その字幕が消えて画面の主人公がアップになったら、たとえ言語がわからない言葉が聞こえていたとしても、意識は画面のアップから情報を取ろうと意識で理解しようとそこに視点が移動するように感じました。母国語の場合それが自動的におこなわれているのだと思いました。意識していなくても視点が切り替わっているのだと思いました。その切り替えている大本に対しての問いを感じました
字幕は読むことができるので、観客は、「意識」ではっきりと認識できると思います。字幕を入れたことで、それまで無意識で認識していた世界を、意識がはっきり認識できるようになるのだと思います。これは、外国人向けの字幕を作っている中で、発見したことなのだと思います。
ですが、全てのセリフを字幕にすることはできなくて、字幕に入れる言葉を決めるということは、作り手側が、相手の「意識」に認知させたい部分を、字幕として入れているともいえると思います。映画というものについて、意識・無意識という視点で斬りこんでいる、これまでにない、斬新な視点だと思います・・。すごいです。
映画のテーマになっていることが、映画作りの翻訳・字幕作成作業のなかで気づきが生まれて、すごいです。もしも、翻訳・字幕にも関わられてなければ、出会わなかったのかもしれないと思いました。字幕の映画を見ていても、字幕は意識の世界で、無意識の世界はない・・とかは思ったことはなかったです。母国語の世界では、自動的に・・智也君の表情を見て、彼の表情に気持ちが移っているのだと思います。
映画の字幕がはいって別の映画みたいになったというのが興味深いです。
…智也のアップに天使とオカマの言い合いをだすと…智也の表情に気持ちがうつるという現象がおこらないんだなと思いました。字幕読んでる時は意識の世界なんだなって思いました。対して字幕読んでない時は…写ってる画像に気持ちが移るんだなって感じました。おもいだしてて…なんていうか母国語の時は…母国語が聞こえたり見えたりしてるときはほとんど…なんていうんだろ自分の事情みたいなものを処理してる気がします。あんまり外じゃないような気がします。そして聞き取れなかった時…いまなんてぇ?ってDVDだともどしたり 日本語映画を日本語字幕にまでして読むこと有ります。(ちょっと事情があって大きい音が出せないため)。滑舌がわるかったりしたとこも…すっごいハッキリ書いてあったりして…なんか音声が均一状態みたいな…急に話がわかったり…驚くこと有ります。そう考えると洋画映画のときは…一層…かなり意識の文字の世界に頼って見てるとおもうし、日本映画の場合はそこらへん自動的に切り替えして見てるんですね…。なんか非常に凄いお話だと思って…ギャーとなっています。洋画と邦画一緒じゃないトコ有るんだなとおもったし…今まで全く気がついてなかったのでヒャーってなってます。何見ても一緒かと思ってたし…洋画にノリノリでした。なんか…焦ってるしドキドキです。
…それからアップはなんの説明もなしというか…その表情に気持ちが乗るってなんか凄いことだと思います。通信状態が謎です。映画終わった後…字幕のお陰で筋立てはっきりすることあるけど…なんとも言えない余韻とか…なんだったのかなんどもみちゃうわっていう色気ってなんか字幕外にあることがおおく…ぜんぜん筋そっちのけではまりそうになったりするところもあって…すごく興味深いです。映画の魅力の謎の一端に触れられてる気がしました。
字幕はすべて意識の世界、書いたものは意識の世界だという気づきは、今まで考えもしなかったです。本を読むとき、それはすべて意識で読んでます。映画は、文字ではなく映像から伝わってくるものです。けれど、字幕をつけることで、意識の世界が入りこんできて、何を字幕にするかで観客たちの意識をどこに向けるかが決まってくるのだと思います。背後の言い合いを字幕にすればそこに集中します。字幕にしなければ、智也の表情に目がいくと思います。映像は変わらないのに、字幕によって、意識させるものが決まってくることは今まで気づかなかったことです。同じ映画なのに、字幕によって、まるで別の映画。。。というのがとても驚きました。その理由は、字幕=意識の世界だけであり、アドリブや背後の声といった字幕にならないものがたくさんあるけれど、焦点を当てた部分だけが観客に伝るからなのだと思いました。たくさんの言葉や情報があふれていてもすべてを意識の世界である字幕にできないというのは、この世界でも同じだと思いました。