昨日は、「アナと雪の女王」の主題歌には「松たか子版」と「MayJ版」があり、私は「MayJ版」が好きだと書きました。
それにしても歌詞が違っていたとは驚きです。
そして先入観は怖いです。
誰だって同じ歌詞だと思うはずです。
先入観は意識でしょうか、無意識でしょうか?
私は意識が先入観を作り出しているような気がします。
その先入観が無意識からの信号をシャットアウトしてしまうのです。
世の中の常識に支配されるのも、先入観のなせる業です。
「松たか子版」と「MayJ版」の歌詞を比較して、私自身かなり驚きました。
何か変だと感じても、歌詞の違いがあることまで検知できなかったからです。
それでも「変だ」と意識にあげるのは無意識の作業だと感じました。
昨日のお話で歌詞がカットされた箇所 と挿入された箇所を聞きました。文字の情報にしたらはっきりわかりますが、無意識はこれを 聞き分けたのかもしれないと思いました。だか らとても詳細な変化にまで気づいて「何か変」 と知らせてくれてるのかもしれないと思います 。意識は、先入観が、それをシャットアウトし てしまうのだと思います。2つは同じもの・・ そういう風に思っていたことこそ、先入観なの だと思いました。
歌詞が変わってるって知らなかったです。そして劇場で聞いても ラジオやテレビで流れても…きっとわからなかったとおもいます。それは先入観によるものなのだなと思いました。映画の同一言語の歌が途中で微妙に変わってるというのは 常識的ではないとおもいました。森田さんはなにか変だと感じられてそれが歌詞の違いであると検出されてとても驚いたのだと思いました。そして意識が先入観を創りだして無意識からの信号をシャットアウトしてるかもって考えられたのだなと思いました。そして先入観が意識で働いてる時に その意識に「変だ」と感じ取らせたのは 無意識の作業だとかんじられたのだなと思いました。
同じメロディの同じ映画の主題歌、歌手が違うだけだと思ってきます。歌い方だけが少し違う感じなのも歌手が違っているから当たり前だとしながら、聞いてしまっていました。先入観があると言葉が違うのを察知できないと思いました。よくよく注意深く聞かないと違いがワカラナイと思いました。それでも変だと、何か感じが違うと思って聞いている人が多かったもの無意識に思ってしまったと思います。人の先入観は結構頑固で目の前にあるのにないのが当然と思うと、それが見えていないです。ここには無いはずが先入観で見ていない状態になるのが意識の方なんだと思います。無意識に反応しているからこそ、好きだ嫌いだも出てきます。好きな人のどこが好きとかの質問には瞬時には応えられません。同じように嫌いな理由もです。何か変だとなるから探してみようになりそうです。
松たかこ版とMayJ版のふたつの歌を聞いても、同じ歌だと思いこんでしまってて、その違いにはまったく気づかなかったです。意識はすでに同じ歌だとわかった気になってるから、無意識が何か違うと感じてもそれはシャットアウトされ意識に上ってこないのかもしれないと思いました。断然MayJ版が好きと感じられたもりけんさんの無意識からの信号をキャッチした意識は、世間のランキングには全く左右されてないです。それどころか、なぜ好きなのかの理由を調べてみたことで、映画のそれぞれのシーンでの女王はエゴの状態と、それじゃダメだと気づいた状態という大きな違いがあることや、その歌詞まで違っていたことがわかってきたのだと思いました。2つの歌を何度も聞いてたけれど、それでも歌詞が違うことには全く気づかなかったです。同じだと決めつけてしまうと、無意識からの信号は受信できないんだと思いました。それは先入観や常識と同じで、先に意識が答えを出してしまったら、「何か変だ」という無意識からの信号は無視してしまうのかもしれません。自分でも気づかないほど先入観や常識に染まっていてそれを無くすのはとてもできそうにないです。私にとってはもりけんさんの問題提起があってはじめて気づけるように、外側からしかないのかもしれないと思いました。
なにか変だと思うのは意識では無理だと思いました。無意識から意識になっているのならば、意識で何か変だと感じるその大本は、無意識である感じがしてきました。無意識が何か変だという信号を送らない限り、意識が単独でなにかおかしいとは感じることができないように思いました。意識を高めても何か変だは感じることができないように思いました