映画「生まれ変わりの村」・・人生は学びのためではない 2014/12/21 7:57 AM 輪廻、あるいは人生は学びのためではないと言っているシーンです。 学びを辞書で引くと「まねごと」と書いてあります。 赤ちゃんは大人のまねごとをして育つのです。 トークショーではモーツアルトの例をだし、自分自身で学ぶことも作品を狭くすることだと説明しました。 シェアしましょう ! Tweet « 映画「生まれ変わりの村」・・理科系作曲対決 映画「生まれ変わりの村」・・輪廻は多彩になるため » コメント 小町 より: 2014/12/21 09:58 学びが多くなると可能性が狭まるは、ずっと学んでいかなければも作り出していると思います。自分が上手く行ったこともその中に入るというのにハッとしました。真似をしたら失敗するリスクは減ると思います。でも新たな可能性は無くなることになると思います。学んで終わりにはしたくない気がすごくします。自分で狭めているに本当にドキッとします。可能性は学びではないというのに広がりを感じてきます。 まりん より: 2014/12/21 11:58 学びを語るもりけんさんの目は鋭くて、とても優しいです。輪廻転生は何のためか?という問いから、新聞で人生は学びのため。。。というフレーズに出会い、すぐに辞書を引かれてびっくりされたこと、私もびっくりしました。まねごと。。。思いもよらなかったです。けれど赤ちゃんは大人のまねごとをするし、幼稚園から大学までずっと学びの連続です。そんな学びに疑問をもったことはなかったです。学んで学んで学んでいく学校教育の延長に、生まれ変わりも学びのため、そう思ってきたのだと思います。それに対して自分自身で体験して学ぶことだってあるという反論に対しては、モーツアルトが自分の作曲体験から、どんなメロディがいいか、いつ作るといいか。。。そういうことを学んでしまうと、どんどんそのメロディの世界が狭くなっていくと。ほんとうそうです。私はずっと学ぶことがいいこと、自分の知識がふえて世界が広がっていくことだと思い込んできました。だから知識がある人ほどすごいと、そう思ってきました。人生は学びのため。。。その考えを支持して、逆に自分の世界を狭く狭くしてきたのだと思います。カルマや裁きと同じように、学ぶことで過去の知識の延長以外をすべて排除して自分も周りも限定してきたのだと思います。そんな学びのためではない。。。学びを捨てること。。。目の前がぐんとひろがるような解放感があります。 こはな より: 2014/12/21 14:32 生まれ変わりの村の情報を聞いて、輪廻のことも見直になりました。私は生まれ変わる・・輪廻して、何回も人生があるとしたら、とか思います。あと輪廻や人生を作ったひとにとってはどんなものとしているのかもです。自分では前はというか、いまもほとんど、自分の人生の意味や言葉として、人生を考えていました。でも下位の問いというものを考えて・・だからフシケンホームページやもりけんさんから発信されたことは大きいです。自分の中にはもともとはなかったことです。 浅葱色の苔 より: 2014/12/21 14:40 “何のために”という思いが湧き上がるから理由を求めるのかもしれません。理由を求めるのは理由なく生き続けることに不安があるからと感じます。その理由のひとつである「学びのため」は違っていること、学ぶほどに自分の世界の表現である作品を狭くしてしまうと説いているのだと思いました。 なんしぃ より: 2014/12/21 21:41 自分で自分の枠を決めてきたように感じました。本当は枠などないのかもしれないと感じました。まねるということで、枠を決定していたのかもしれないと感じてきました
学びが多くなると可能性が狭まるは、ずっと学んでいかなければも作り出していると思います。自分が上手く行ったこともその中に入るというのにハッとしました。真似をしたら失敗するリスクは減ると思います。でも新たな可能性は無くなることになると思います。学んで終わりにはしたくない気がすごくします。自分で狭めているに本当にドキッとします。可能性は学びではないというのに広がりを感じてきます。
学びを語るもりけんさんの目は鋭くて、とても優しいです。輪廻転生は何のためか?という問いから、新聞で人生は学びのため。。。というフレーズに出会い、すぐに辞書を引かれてびっくりされたこと、私もびっくりしました。まねごと。。。思いもよらなかったです。けれど赤ちゃんは大人のまねごとをするし、幼稚園から大学までずっと学びの連続です。そんな学びに疑問をもったことはなかったです。学んで学んで学んでいく学校教育の延長に、生まれ変わりも学びのため、そう思ってきたのだと思います。それに対して自分自身で体験して学ぶことだってあるという反論に対しては、モーツアルトが自分の作曲体験から、どんなメロディがいいか、いつ作るといいか。。。そういうことを学んでしまうと、どんどんそのメロディの世界が狭くなっていくと。ほんとうそうです。私はずっと学ぶことがいいこと、自分の知識がふえて世界が広がっていくことだと思い込んできました。だから知識がある人ほどすごいと、そう思ってきました。人生は学びのため。。。その考えを支持して、逆に自分の世界を狭く狭くしてきたのだと思います。カルマや裁きと同じように、学ぶことで過去の知識の延長以外をすべて排除して自分も周りも限定してきたのだと思います。そんな学びのためではない。。。学びを捨てること。。。目の前がぐんとひろがるような解放感があります。
生まれ変わりの村の情報を聞いて、輪廻のことも見直になりました。私は生まれ変わる・・輪廻して、何回も人生があるとしたら、とか思います。あと輪廻や人生を作ったひとにとってはどんなものとしているのかもです。自分では前はというか、いまもほとんど、自分の人生の意味や言葉として、人生を考えていました。でも下位の問いというものを考えて・・だからフシケンホームページやもりけんさんから発信されたことは大きいです。自分の中にはもともとはなかったことです。
“何のために”という思いが湧き上がるから理由を求めるのかもしれません。理由を求めるのは理由なく生き続けることに不安があるからと感じます。その理由のひとつである「学びのため」は違っていること、学ぶほどに自分の世界の表現である作品を狭くしてしまうと説いているのだと思いました。
自分で自分の枠を決めてきたように感じました。本当は枠などないのかもしれないと感じました。まねるということで、枠を決定していたのかもしれないと感じてきました