昨日、映画「和」のプレミアム上映会が終わりました。
昼夜ともにほぼ満席で、盛況に終わることができました。
来ていただいたみなさん、本当にありがとうございました。
映画の前のイベントは「良かった」という声が多いです。
壇上のみなさん、ありがとうございました。
ところで肝心の映画は「ワカラナイ」という声が多いです(笑)。
他の映画と比べるとナンですが、「サイタマラッパー」という映画の監督は「隣に座っていた人が『ワカルよなあ』と言ってくれたのが嬉しかった」と言っていました。
僕の作った映画はそれとは反対で「ワカラナイ」。
でもね、そこに僕は共感を感じているのです。
だって作った本人が「和」をよくワカッテいません。
つまりこの映画には自己主張が少ないのです。
問いかけが中心です。
昨日は大きなスクリーンで初めて見ました。
昼の部は最前列です。
編集の段階で感動した部分と別のところに感動しました。
戦争は無くならないとインタビューに答える人たち、戦争は宇宙のルールですとまで言い切るトラさん・・・にです。
ああ僕はこの部分をカットせずに出せたんだ・・と感動したのです。
そして自分のトークの内容を思い出し「これは僕がカットしなかったのではなく、僕の無意識を操作している神がカットしなかったのだ」と思いました。
夜の部は一番後ろで見ました。
僕の隣の男性が
「モリケンさんと隣同士になるのも決まっていたのですかね?」
「はいそうです」
(爆)
夜の部の上映で感動したのはラスト直前のスクランブル交差点です。
バックでは、「フランスには「和」という概念は無い」とフランス人が語っていました。もしかするとフランス人が見ると面白くない映画かも知れません(爆)。
世界はルール化の方向に流れています。
原因は軍事力であったり政治力であったりします。
混とんではダメなのです。
しかし少し上から撮影したスクランブル交差点の風景はまさに混とんでした。
無秩序の交差点なのに日本人は問題なくスイスイと歩きます。
ここに訳もなく感動したのです。
映画館で座る位置によって感動する部分が違うというのは「ワカラナイ」が前提となっている映画だと感じました。
神のシステムは知れば知るほどワカラナイです。
ということは神が自己表現をした映画かも知れません(笑)
プレミアム上映会、参加させていただきありがとうございました。映画は混沌としていますが、そもそも私たちの住む世界は混沌としていて、普通の視点は、その混沌とした世界をルール化する方向でうごいているのだと思います。「和」は、混沌とした世界を、あえてその出されていると思います・・。もしかしたら、この混沌というのをルールで切ると、「生命感」のような生き生きとした部分が失われるのかもしれないです。それは、生きた魚をそのまま観察するのと、解剖して観察するのとの違いと似ていると思います。解剖手術で切り刻んだ瞬間・・生命感は失われると思います。
映画館の座る場所によって感動する部分が違ったというエピソードも、とても興味深いです。映画を作られた監督自身が、同じ映画を同じ日に見ても、座る場所で感動する部分が異なっていて、まるで、映画自体が生きているかのようだと思います。
誰でも本当に戦争はいけないや反対やダメって、思っていると思います。でも、インタビューでは問いかけられて、戦争が無くならないことを良い悪いじゃなく、どうしてだかわからないけど、戦争は無くならないと答えている人が圧倒的でした。自分を度外視していないと思うし、もりけんさんのインタビュアとして監督としての問いかける側と問う側の信頼をすごく感じました。問いかけは本当にサラッとしていると思います。でも、その問いは本質への問いだし、答えが出せないし、考えて生きていくのだと思います。問いかけが主体の映画はそこまで来ているのになぜかすり抜けるワカラナイを感じてくると思います。 そんな映画は初めてだし、やはり神が手伝ってくれていると感じてきます。
ワカラナイ映画っていう映画は初めて作られたのではないかと思いました。しかもそこから、神の考察へ繋がることも、もりけんさんの映画しか考えられないです。