映画「ワンネス」「和」 夢を捨てる

2014/03/02 8:37 AM

20140302082140DSC00827本田選手 
 これは数日前の朝日新聞に載っていたユニクロの宣伝です。
 本田選手の小学校の作文が載っています。
 人生はいろいろあり、他人の人生に難癖をつけるつもりはないのですが、だれか教えて欲しいのです。
 一体こういう人生に何の価値があるのでしょうか? 
 ソチオリンピックの選手でも同様です。
 羽生はスーケトで金を取りましたが、何の価値があるのでしょうか?
 私が夢を捨てたのは中学の時です。
 秀でたものを生かして何かになろうというのが、バカみたいに感じたのです。
 私は自分の内側の動機よりも、外側に興味がいくようになりました。
 そうなると、野原でボールを蹴っていたほうがいいと思います。
 遊び半分でスケートをしたほうがいいです。
 スポーツなんて所詮、余暇ではなかったのでしょうか?
 数日前に、人生は暇つぶしだと書きました。
 人生そのものが余暇です。
 これは夢を捨てるところから始まると思いますが・・。


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コメント

  1. 小町 より:

    本田選手の作文、読みました。夢を実現している、素晴らしい人生になっていると思います。人生は夢の実現と言っても、頂点に立つことになるのが夢だとしたら、本当にサバイバルどころじゃなく死闘になってしまうと思います。誰かがその頂点に立つと蹴落とそうとするものとの戦いになってきます。自分の名前が世界中に知れ渡るのは、いい意味でも悪い意味でも窮屈さが出てくると思います。有名になりたくないです。もりけんさんは中学の時に自分の秀でたものを生かさなくていいになったのが、すごいです。秀でたものがあった方がいいなと私は中学の頃に思っていましたから。秀でていないから、普通でいれば問題ないと思っているのは今でも変わらないです。夢が頂点なら本当に自分をガンガンに鍛えないとそこへは行きつけないし行けないのを作文でも本田選手は書いています。でも、そんな練習より、野原でバールを蹴っている方がずっと楽しいです。羽生選手のように注目されて、ファンがたくさんできなくても、氷の上を下手でも滑っていた方が転んでも、アレって感じで面白いです。人生は余暇、これが素敵です。だって、誰も人生の価値は一緒だと思います。外側から動かされているのは変わらないです。内側は問われていない気がします。夢はホンの少し華やかだけど、その場所はすぐに無くなります。サッカー選手やスケート選手がずっともてはやされはしないと思います。人生がずっと余暇なら達成する夢は意味が無いと思います。

  2. どせい より:

    もし、もりけんさんのHPに出会う前なら、小学校のころに描いた「夢」というものを、実際に実現している本田選手のことを、すごいと思ったと思います。将来、世界で活躍するプロのサッカー選手になりたいと思う子供は沢山いるのかもしれませんが、実際に、それを予見するような作文を書いて、それを本当に達成するというのを、きっとすごいと思ったと思います・・。
    それを「すごい」と思うこと自体、私も「意識中心」で生きてきた証でもあると思います。夢を達成することを重要視するのは、どこまで行っても、自分の内側の意識が、結果を作り出していると考えていると思います。
    ですが、意識が無意識に支配されていること、あるいは、私が結果であること・・を認識することは、夢そのものが、しだいに褪せてくる感覚に近いのではないかと思います。「それがどうした・・」という感覚です・・。だって、夢そのものも、達成した結果も、自分で出したものではないからです。人生が暇つぶしであるという感覚は、人生に対する夢を捨てないと、始まらないのかもしれないです。

  3. みっく より:

    サッカー漬けの人生を送る人は他にもいるかもしれないけど、本田選手は小学校のころに書いた作文の通りになったんだと思います。そんな人はかなり少ないと思います。スポーツの選手の夢はたいてい強くなることだと思いますが、肉体の限界があるからそれには終わりがあると思います。でも、のっぱらがあって、ボールがあるから蹴ろう・・というのなら、誰でもできて終わりはなさそうだと思います。夢を持つというのは内側の動機で、それに向かってまい進すると、周囲は見えないし、切り捨てることもたくさんあると思います。森田さんのコメントにある、愛がない・・というのはそういうことではないかと思いました。外側に目を向ける暇つぶしの人生は、内側よりずっと広い外側と繋がってる感じがします。狭くて小さい自分の思いをかなえることが、ほんとにそんなに大事なのか・・そんなに素晴らしいことなのか・・と考えさせられました。

  4. なんしぃ より:

    新聞に載っていた洋服メーカーの宣伝に使われているものなのだと思いました。宣伝だから、その会社のポリシーのような感じもしました。夢をもってそれを実現し続け、お客様を絶対に裏切りませんという広告のような感じがしましたが、そもそも夢をかかげ、それを実現することが人からの信用につながるとは思えないです。人と人をつなげるものが夢を持つことだとは思えないです。夢を捨てたとき、視点が根源に向かい根源に向かうことで自分も相手も同じなんだ、根源的なことは何もわかっていない、自分がなぜ存在しているかもわかっていないまま存在しているかけがえのない相手同士なのだと感じるような気がしました。夢を捨てると、自分や相手が存在しているという根源的な不思議に問いが生まれて、相手を自分のように思える気がしました

  5. こはな より:

    中学生のもりけんさんは、何かになろうとは思わなかったのだと思いました。野原でボールを蹴るのは、遊び半分でスケートを滑るのは、サッカー選手という肩書きや、スケート選手または金メダリストという肩書きのない、森田君・・自分自身なのだと思いました。

  6. まるこ より:

    私たちは生まれたくて生まれたわけではないです。ここはどこで、なぜここに存在するのかも分からないです。そんな状態でどんな自己実現をしたところで結局虚しいです。なぜならその肝心の自己がワカラナイ。そして自己が存在しているこの時空のことはもっとワカラナイです。そのワカラナイに蓋をして自分をどんなもので満たそうとしても余計に虚しくなるだけだと思います。それでも大手メディアにこういう広告が掲載されるということは、そんな自己を溢れんばかりに満たすことが素晴しいと多くの人が考えているからなのだと思います。中学のときに夢を捨てた森田君は、自己を満たさないでワカラナイままに放置したのだと思います。カラッポになって、どこにも向かわず、自分の外側に興味を持って、ずっと暇つぶしの人生を生きてこられたと思います。それは個と全体が一つになった人生だと思います。夢や目標を捨てて個と全体が一つになったとき、初めて私たちは本当の意味で生きていると言えるのかもしれないと思いました。

  7. まりん より:

    問いが生まれるのは、そのことを深く考えてるからだと思います。中学生のときに夢を捨てたことは、その夢を持つ人生に価値があるのか?という問いがあったからだと思います。その問いが生まれたのは、夢や人生や価値。。。そういうものをそのまま鵜呑みにしないで、自分で深く考えてみて、何かヘンだと思ったからだと思いました。私は夢をもつことも、そのための人生もこれほど深く考えたり問いをもったことはなかったです。わかったふりをして、実は何もわかってないまま、だったのだと思います。自分の意見を言ってるようで、周りからの受け売りや常識からわかったつもりになってただけだと思いました。問いが生まれるのは知らなくて当然で考えつづけてるからだとおもいました。

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